聖書の話を身近な経験に置き替えてみました(98) 「人を通して、自分のlifeを神さまにささげる、お返しする」

翁長雄志さんは人生の最後の四年間を沖縄の人びとにささげました。もともと自民党員で保守政治家でしたが、米軍基地の存在によって沖縄の人びとが苦しめられていることをこれ以上放置できず、辺野古新基地建設を阻止するために、県知事となり、強行する国に全身全霊で抵抗したのでした。知事の任期の最後の年に67歳の若さで亡くなったことは、翁長さんがまさにそのいのちを沖縄の人びとを守るためにささげたことを、悲しくも痛ましくも、たしかに物語っています。

尾畠春夫さんは66歳で鮮魚店を畳む前後から、新潟県中越地震東日本大震災、熊本大地震などの被災者支援のボランティアに手弁当等で駆けつけていたそうです。そして、2018年の猛暑の中でも西日本豪雨の被災者支援活動に携わっておられました。この間、行方不明者の捜索活動にも参加しておられたそうですが、この8月、山口県で祖父母の家の近くで三日間迷子になっていた二歳児の救援にも加わり、30分も経たないうちに見つけ出し、話題になりました。その後も中国地方の豪雨被災者支援に参加するそうです。日本の各地に軽自動車で駆けつけ、自給自足で活動するそうです。

新約聖書の中に、イエスのこのようなたとえ話があります。ある人がぶどう園を作り、農夫に貸し出し、時が来ると、収穫のために僕を派遣する、というのです。「ある人」は神、「ぶどう園」はこの世界、「農夫」はわたしたち人間のたとえだと考えられます。

では、「収穫」は何を意味するのでしょうか。これは、自分の人生、自分自身を神にささげる、あるいは、返すことではないか、とわたしは考えます。

わたしたちは、わたしの人生はわたしのもの、わたしのいのちもわたしのもの、わたし自身もわたしのもの、と考えています。けれども、聖書は、わたしたちは神によって創られたものだ、と語っています。たしかに、わたしたちを創ったのはわたしたちではありませんね。わたしたちはわたし以外の力によって創られたのです。他の宗教と同じように、聖書も、いのちは与えられたもの、と教えます。

わたしたちのいのち、人生(どちらも英語ではlife)は、与えられたもの、あるいは、神から借りているものなのではないでしょうか。ですから、それは、神にお返しするものなのです。

地上の旅を終えるときは、もちろん、神にいのちをお返しするのですが、生きているうちからも、翁長さんや尾畠さんのような、他者に自分の時間をささげる生き方で、神にお返しすることができるのではないでしょうか。

何も政治家や精力的なボランティアでなくても、誰かに話をしたい人がいたら、わたしたちは自分の30分をその人にささげることができるのではないでしょうか。ささげるという言い方がおこがましいなら、わかちあう、と言ってもよいのです。誰かの話に耳を傾けるということは、自分が話す時間をその人にささげることなのです。

(マルコ12:1-12)