2 「イエスがわたしのために死ぬ」ことの功罪

マーカス・ボーグ「イエスとの初めての再会 史的イエスと現代的信仰の核心」(新教出版社)

 イエスに関心のある人はそれぞれ、イエスについてのイメージをもっています。それは何もないところからできあがったのではなく、聖書やイエスに関する本を読んだり、教会や学校や講演会や勉強会、読書会などで人の話を聞いたり、自分の思いを述べたりする中でしだいにできあがってくるものです。いわば、自分以外のところから得たイエスについて情報(書物、語りなど)と自分の考えによって、人それぞれのイエス像が築かれるのです。

マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、それぞれの福音書を書いた人(あるいは集団)も、イエスについてそれまで耳にしてきたことや、礼拝などの場で人々の口から口へ語り継がれていること、あるいは、書かれた資料などの材料に、自分の印象や、イエス像を描く目的、というような調味料を加えて、イエスの物語を書いています。

 現代の学者たちも同じです。聖書や同時代の資料、他の学者の研究成果などをネタにして、自分の経験で味付けして、イエスの姿を描いています。ただし、学者たちの場合は、なるべく客観性の高い資料や推論を用いて、実際のイエスにできるだけ近い人物像を描こうという意識があるようですし、さらには、自分の示すイエス像も一仮説にすぎないという謙虚さを備えている場合も見受けられます。

 わたしは学者でありません。客観性を全く度外視はしませんが、それ以上に、その学者が描くイエス像がどれだけゆたかか、ということが楽しみです。客観性を持たせなければならない、しかも、やがては乗り越えられる一仮説に過ぎない、という限界の中で、どれだけイエスがおもしろく描かれているか、ということが大事だと思います。

 さて、マーカス・ボーグはこの書の中で、イエスについていくつかのイメージを述べています。

 まず、イエスは神が今ここに働いていることを現実感をもって感じ、また、神と親密な交わりを感じていた、とボーグは言います。たとえば、神をアバ(英語で言えばパパ)と呼んだことに親密さが、あるいは「権威」(マルコ1:22、マタイ7:29)をもって語ったことに現実感がうかがえます。ボーグは、こういう意味で、イエスは「霊性の人」であったとします。

 つぎに、イエスは深い憐れみの心を持っていたとボーグは考えます。この憐れみは、上から下に向けられる恩情ではありません。イエスにとって、神は「子どもたちすべてのために心を砕く」「命を与える、養う、世話する、さらには抱擁する、抱きかかえる」(p.94-95)存在であり、まさにこれが憐れみなのです。イエスはそのような神をリアリティをもって感じていました。

 ところで、当時のユダヤ社会は「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)ということを規範としていました。「聖なる」とは「清浄」という意味で用いられ、この規範は、うらがえせば、ある状態やある人々を「不浄」とみなし、社会から排斥することを促しました。罪人と呼ばれる人々、病人、女性、貧困者、外国人、身体障害者などは「不浄」とみなされたことでしょう。「聖」を持ち出すと、どうしても、「不浄」も引き出されるのです。

 ところが、ボーグによれば、イエスは、「聖性」ではなく「憐れみ」が社会の中心にあるべきだと考えていました。それは、神が憐れみ深いことに倣って、また、神から受ける憐れみに感謝しつつ応答して、人が憐れみ深くなろうとすることです。聖なる者となろうとするがゆえに不浄とみなす者を斥けるようなこれまでの社会観をくつがえして、イエスは「憐れみ」を持つ者になろうする斬新な生き方を示したのです。

 さらに、ボーグは、イエスは新しい物の見方を示す者として描いています。たとえば、古い考え方、社会にこびりついた因襲的な考え方にしたがえば、わたしたちは、自分の達成したところや自分の手に入れたものによって、不安をごまかそうとします。また、誰かを自分の劣位にみなすことで、安心しようとします。

 しかし、イエスが示す革新的な考え方によれば、何も持たない貧しい人が神さまの祝福を受け、低いとみなされている者が高くされるのです。神の国は、高い到達点でも豊かな城でもなく、芥子種から芽生える雑草であり、不浄とされるパン種であり、何持たず何も達成していない、取るに足らないとされる子どもたちに譬えられるのです。「明日は炉に投げ込まれる野の草」(マタイ6:30)を神は装うことをイエスは教えます。人は能力や優秀さや到達点によって不安を解消しようとしがちですが、その因習から抜け出して、イエスは「すべての生命の根源には神の恵みと寛大さがあることを知る」(p.153)ような新しい見方へと招いているのです。

 ところで、ボーグは、旧新約聖書を貫く三つの大きな物語があると言います。ひとつは、エジプト脱出の物語、ひとつは、バビロン捕囚からエルサレムへと帰還する物語、そして、もうひとつは、罪ある者が供犠によって赦される、という物語(これをボーグは祭司物語)と呼んでいます。

 これらの大きな物語旧約聖書に見られますが、これらの物語のモチーフは旧新約聖書のあちこちにも繰り返し姿を見せているとボーグは言います。さらには、これらの物語は現代的な意味もあると。

 たとえば、わたしたちも、社会的にも身体的にも心理的にもさまざまな束縛を受けて生きていますが、神はわたしたちがそこから解き放たれることを望んでおられるというメッセージが汲み取れます。束縛から外に出て踏み込む自由の地も厳しい荒野ですが、その旅を神はともなってくれると。あるいは、わたしたちは、本来の場所から遠く離れたところにいるように感じていますが、神はそこへの帰還を誘ってくれると。

 イエスにはまさにわたしたちを現在のエジプトから解き放ち、現在のバビロンから故郷へと導いてくれる者としてのイメージがあるのです。けれども、祭司物語をイエスに重ねる際には慎重にならなければなりません。「イエスはわたしたちのために死んだ」という言葉には、もちろん積極的な面もありますが、マイナスの面もあります。

 ボーグはまず積極的な面を述べます。イエス旧約聖書の祭司物語をあてはめて「イエスはわたしたちのために死んだ」というとき、ここには、「神の大いなる愛」(p.227)が聞きとられ、「わたしたちはありのままで受け入れられている」(同)という意味が汲み取れます。自分が罪深いとか無価値であるとか感じる人にはこのメッセージは重要だと言います。

 しかし、ボーグはつづけて、「わたしたちのために死んだ」というイエスのイメージのマイナス面を述べます。まず、あなたは受け入れられているのだからこれ以上望むことはない、というように、イエスを信じる者の生き方が静的になってしまいます。また、受け身になってしまいます。新しい地平を目指して前に進もうという観点がぼやけてしまうのです。また、「死後の救いのために今信じなさい」というようにキリスト教が「死後の宗教」(p.229)と解釈される傾向を招いてしまいます。

さらには、「神は、イエスがその供え物であると信じる人を赦し、信じない人を赦さない」「神の赦しは、状況次第、条件次第」(同)ということになってしまいます。つまり、わたしが誤読ノート1(「第二イザヤと『僕の歌』 中間報告」 大河原礼三 を読んで)で述べたことと同じことなのです。

 また、現代の人々の中には、罪責感よりも「束縛感、孤立感、疎外感」(p.230)を大きな問題に感じている人々もいるのです。その人たちには祭司物語と重なるイエス像よりも、エジプトからの解放やバビロンからの帰還物語と重なるイエスの姿の方が必要だとボーグは述べます。

 わたしにとっては、聖書を読み、学者の描くイエス像を読み、さらに多様な人々が抱くイエス像に耳を傾けて、自分のイエス像が遍歴をする、いや、わたしがさまざまなイエスとさまざまな旅をすることが大きな楽しみです。