63 「歴史上のすべての終末論は実ははずれた」

旧約聖書を学ぶ人のために」(並木浩一/荒井章三[編]、世界思想社、2012年2月)

 日本を代表する旧約学者たちがテーマやを分担して執筆した入門書。現代聖書学のかなり新しい成果も反映されているように思います。

 わたしにとって目新しいことをいくつか紹介すると、まず、荒井章三さんによる「『約束と成就』という構造は、旧約聖書の中にすでに存在している」(p.7)指摘です。これは、いわゆる「旧約聖書」を預言、「新約聖書」をその成就とする、キリスト教の優越感にとっては貴重な批判となると思います。

 荒井さんはさらに(苦難の)「僕としてのメシア像は、旧約聖書の中では例外的な箇所でしかない。したがって、預言としての旧約聖書から、イエスの生涯と十字架における苦難をその成就として読み取るのは、きわめて小さな接点でしかない」(p.19)とも指摘しています。

 また、キリスト教徒の多くは、聖書は終末の到来を予言していてそれは何らかの意味で成就すると信じるのですが、関根清三さんは大胆にも「歴史上のすべての終末論は実ははずれたのだということを、われわれは率直に認めなければならない」(p.120)と述べています。そして、「終末を単に現在の人間の努力と掛け離れた将来の神の業にたてまつってしまうのではなく、すでに現実の社会のそこかしこに起こり、われわれが微力と言えども力を尽くしそれに参与すべきものであることを告げることによって」イザヤ書の苦難の僕は「終末論を現在化」(p.122)できたと言います。いつかではなくこの今を決定的な時として生きているか、わたしたちも問われています。

 鈴木佳秀さんは、ヨシュア記などでパレスチナの先住民を「滅ぼし尽くせ」と言われていることについて、「戦勝国の守護神につける祭司が、捕虜や家畜、土地、戦利品」について「古き神との服属関係を『剣』をもって切り離し、新たな神の所有に帰属させる儀礼行為を『聖絶』と呼ぶべきで、物理的に『滅ぼし尽くす』ことではない」(p.296)と述べています。先住民虐殺があったならこの指摘によって隠ぺいされてはなりませんが、むしろ、「滅ぼし尽くす」という聖書箇所を根拠に現代の侵略、住民虐殺を正当化することがますますできなくなることに期待します。