(37)「個人を超えた大きな文脈から、その人の死、そして生を見つめ直す」

 「ちゅらさん」というNHKの朝のドラマで、小学生の男の子が難病で死んでしまったとき、涙が止まらない子どもたちに「おばあ」は、「かずやくんみたいな子どもは、いのちの大切さを教えるために生まれて来たのさ」と言いました。

 もちろん、死ぬ前からそのような目的があったわけではないでしょう。最初から、その人の人生はそういう目的があり、そのためにその時に死んだわけではないでしょう。

 けれども、誰かが突然に理不尽に死んでしまったとき、残された者が亡くなった者の生と死をたいせつにていねいにやさしくもういちど見直すならば、それはけっして無意味なものでなかったことがあきらかになるのです。

 お葬式で故人のことは悪く言いません。むしろ、故人の良かった点を思い浮かべる、というか、わたしたちのその場その場での一喜一憂を超えたもっと大きな文脈で、故人の人生をとらえなおします。それは、わたしたち個人や人間の限界を超えた、いのちの文脈、宇宙の文脈、超越者(神)の文脈と言うことができるでしょう。「ちゅらさん」の「おばあ」の言葉は、そのような脈から出て来たものなのです。

 聖書によりますと、イエスは人びとを引き付けますが、ユダヤの権力者はそれを怖れます。ユダヤを支配しているローマは、そのようなイエス・ブームをユダヤ人の謀反と思い、国がつぶされるかも知れないからです。

 そこで、ユダヤの大祭司は、イエスに死んでもらって、その難を逃れよう、と言いだします。じじつ、イエスは大祭司からローマ総督に引き渡され、十字架刑を受けるのです。

 けれども、弟子たちなど、イエスを愛した人びとは、イエスを忘れてしまうことができず、むしろ、その人びとの中でその存在がますます大きくなっていく中で、イエスとは誰だったのか、という問いへの回答を探りつづけました。

 イエスの生と死、印象深かったイエスの言葉と行動、イエスの誕生、十字架の死、そして、それを超えてますます大きくなるその存在の意味を問いつづけました。というよりは、その問いを解く営みに包まれてしまったのです。

 そこで与えられたかのようにたどりついた回答は、イエスは神の子であり、救い主であり、自分たちの根本の支えであり、神が自分たちとともにいてくれることそのものである、というものだったのです。人びとは、イエスの言動、イエスの存在、イエスの生涯の奥底に、神を感じたのです。それは人びとにとって救いでした。神による救いでした。だから、イエスをキリスト(救い主)と呼ぶようになったのです。