1 「いけにえがなくても神は自由に赦す」

「第二イザヤと『僕の歌』 中間報告」(大河原礼三)を読んで:

 「イエス・キリストは罪を負うわたしたちの代りに十字架について死んだ。そして、神はわたしたちの罪を赦した」、キリスト者の多くはそう教えられ、自分でもそう思ってきたことでしょう。

 けれども、大河原礼三さんは表題の冊子の中で、「祭壇に代贖の献げ物をすれば赦されるという関係は一種の応報的な合理性をもつから分かりやすい。・・・しかし、聖書の神は応報原理を超えており、神の自由な赦しは人間的な合理性を超越しており、また、祭儀を必要としない」(p.23)と述べておられます。

 つまり、神は何かの交換条件に応じてではなく、あるいはそれに左右されてではなく、ただ赦そうという意志、すなわち、(何かに応じたのでも左右されたのではない自発的な)自由な意志で人間を赦すというのです。

 たとえば、詩編に含まれる「七つの悔い改めの詩」(6、32、38、51、102、130、143編)では、詩人が罪を赦されたことを述べているが、そこには「償いの献げ物」「代贖」などはまったく言及されていない、ということです。これらの詩編において、神は交換条件なしに罪を赦しているように読めるのです。

 では、神はどうして人の罪を赦すのかというと、イザヤ書では神は「わたし自身のためにあなたの背きをぬぐう」(43:25)と語られ、また、ダニエル書にも「御自身(=神)のために、救いを遅らせないでください」とあります。他にも、神が何かに影響されてではなく、自身の意志で赦すことを示す旧約聖書の箇所があげられています。

 イエスについても、(罪の赦しのための、と言われる)十字架で死ぬ前に、すでに、中風の人に「あなたの罪は赦される」と語っている、という指摘がなされています。イエスは十字架を経由せずに、「罪を赦す全権を神から委託されている」(p.22)と大河原さんは書いています。

 なぜ、代贖が問題とされるべきなのでしょうか。それは「尊厳な死を何かのための手段として使うことは『神の像』に造られた人間の尊厳を自覚する旧約聖書の思想になじまない」(p.23)からなのです。また、「人の罪は本人が負うべきものであって、他人が負うものではない」(p.24)からです。さらには、誰かの死を代贖死として賛美や感謝することは、国家による犠牲である戦死を美化することにつながりやすいからです。

 神は罪人に対する怒りを治めるために罪人の代りのイエスの血を欲したのでもなく、あるいは、罪人に罰をくだす代りにイエスの死を求めたのではないとするなら、イエスはどうして死んだのでしょうか。

 この論文で直接触れられているわけではありませんが、福音書を読みますと、イエスは宗教権力者たちによって死へと追い込まれました。彼らはユダヤ社会の支配者でもありました。ユダヤを軍事的政治的に支配していたローマ帝国からの総督もそれを認めました。イエスは権力者に殺された、と言うことができるでしょう。

 わたしたちもまた権力を志向することがあります。イエスの歴史的な出来事に、わたしたちの信仰的な思いを重ねて、話を飛躍させてしまうならば、わたしたちが自己の利益のために他者を傷つける時、わたしたちはイエスを殺している、また、わたしたちが傷つける相手の顔は十字架で殺されるイエスの顔と重なっている、と言うこともできるでしょう。

 わたしたちは十字架のイエスやそこに重なる多くの人々を死なせてしまっていると反省した上で、神から無償で直接にもたらされる赦しに促されて、もう人々を死なせない道を求めるように促されているのでしょうか。

 大河原さんの論文を読み、イエスの死を代贖の死、供犠としての死とする信仰や神学について、これから考え直したいと思いました。

 けれども、「イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んでくださった」という表象が、代贖や供犠については無反省であるけれども、「イエスからこんなすばらしいものをもたらされた。イエスがそれほどに自分にコミットしてくれている」ということを言い表している場合も少なくないかと思います。

 これにかかわることが、マーカス・ボーグの「イエスとの初めての再会」(新教出版社)に書かれていましたので、次回はこの書の誤読ノートにしたいと思います。