(3) たいせつな聖餐

キリスト教批評(3) たいせつな聖餐

 洗礼を受けていない人をも聖餐式に歓迎する立場と、聖餐式は受洗者に限定する立場の間では、キリスト教雑誌の誌面などで、聖書やキリスト教の歴史に基づいてそれぞれの考え方を主張したり、反論したりということはありましたが、おたがいにじかに向き合って、また、相手に耳を傾けるあたたかな心をもって、何とか理解しようとして相手の声を聞いたり、落ち着いて自分の思いを語ったりすような場は、わたしの知る限りでは、なかったように思います。

 むしろ、自分たちの考えは絶対正しいという狭小な主張の指導的者たちや組織の意向を受けた人々が、教区や支区の総会などで、聖餐とは別の件であっても、それに絡めて、自分たちとは違う立場の人々を非難する姿がよく見られます。機関紙上でも同じようなことがあります。稚拙で強引で、異なる他者への配慮がまったくない記事を目にします。そこには進軍ラッパが鳴り響いているようにさえ思えます。また、狭小な考えの組織の中で自分の立場を確保するために心をかたくなにするばかりに、臨床心理学的なアプローチが必要ではないかと思われるような事態を引き起こしているようにさえ思えます。

 わたしは、聖餐についてのどちらの立場が正しいかを議論によって決するよりも、それぞれの立場の人々が、その主張の根底において大切にしていることがらを静かに語りあい、静かに聞きあい、「意見は違うけれども、あの人はこれを大事に思っているのだなあ」と共感しあうような場を切望しています。そして、そこに和解が生じ、今、どのような考えの人も手にしていないような、まったく新しい何かが生まれてくることを期待しています。

 昨年、わたしは近隣の教会に以下のような呼びかけをしました。

引用開始:

「正しさではなく大切さを語り合い、聴き合う会」のご案内

○○教会  牧師 ○ ○○

 主イエス・キリストの聖名を称えます。

 さて、洗礼を受けていない人の聖餐式参加や○○○○牧師への戒規申し立ての是非などについて、さまざまな議論がなされているようです。

議論によって正しさを訴えあったり、反論しあったりすることも大事ですが、わたしは、議論するだけでなく、主張の背後にある「きわめて大切なものを守ろうとする思い」を理解し合うことも大事だと考えます。

 わたしたちは、隣人と自分の人生にとってもっとも大事なものを、御子と聖霊と聖書、また、祈り、礼拝、聖徒の交わり、教会の歴史などを通して語りかける神さまのみ言葉を通して受け取ります。そして、それを大切にしようとします。

 上述の課題に、正しさの議論だけでなく、この「大切さ」を理解しあって取り組むことができれば、じつにすばらしいと思います。

 つきましては、以下のような集まりを考えておりますので、ぜひお越しください。

2008年○月○日(土) 午後1〜3時

日本キリスト教団 ○○教会にて

※○○教会主催ではなく、○○教会の牧師が役員会の許可を得て個人的に呼びかける集まりです。

1)○○牧師への退任勧告や戒規申し立て、洗礼を受けていない人の聖餐式参加について、賛成の人、反対の人、それ以外の意見の人が、議論ではなく、自分の意見が正しいという主張でもなく、自分がどのようなことを大切にしてそのような意見を持っているのかを語り合い、聴き合う。

2)発言者は、自分の正しさを主張するのではなく、自分が大切にしているものを他の参加者にわかちあってもらおうという気持ちで語る。その際、間接的にであっても、他の参加者が非難されていると感じることがないように十分に配慮する。

3)聴く人は、その意見に賛成でなくても、「ああ、この人はこのようなことを大切にしているのだなあ。自分はそうは思わないけれども、この人は、この人でこういうことを大切にしているのだなあ」と共感的に聴く。

:引用終了

 残念ながらこの呼びかけにこたえて参加してくれたのは一人だけでした。

 「洗礼を受けた人が聖餐式にあずかることができる」、このように「主張」をする人が、このことを「大切」にすることは当然だと思います。洗礼によって、罪に満ちた古い自分が死に、キリストとともに復活し、新しいいのちを与えられ、新しい人生を歩み始める。しかし、洗礼を受けた後も、人間は罪人であり、日々繰り返した新しくされる必要があり、じじつ、聖餐式においてキリストがご自分の体と血をわたしたちにわかちあたえてくださることで、罪人であり続けるわたしたちが繰り返し新しくしていただく。そのような信仰を、心から大切に思っておられるのだと推測します。

また、その教会の伝統によっては、洗礼には自発的な信仰告白の要素が最重要視される場合があり、そのような信仰の決意を大事に思い続けつつ、その決意を更新する思いで聖餐式に参加しておられる方々もおられることでしょう。このように、洗礼と聖餐式は切り離すことのできない一連の聖礼典であり、ここにキリストの救いがある、という信仰を大切にしておられるのだと思います。
 
 他方、「洗礼を受けていない人も聖餐式に受け入れたい」という主張する人々は、イエスは、ある人々が自分たちを特権的な領域に置き、それ以外の人々を下位にみなして排斥する、というような人間の在り方に敏感であり、むしろ、そうして斥けられる人々を受け入れ、食卓も共にした、このイエスの姿勢を根本的なところで大切にしているように思います。また、組織維持や自己主張、自己特権化のために形骸化した宗教の在り方にもイエスは鋭敏で、そこから疎外される人々を回復させようとしたことも、主張の根本にあると思います。

 非常に大胆な言い方をすれば、前者はキリスト主義、後者はイエス主義と言えるかも知れません。(むろん、このような二分法は現実の分析に基づいたものではなく、ここでの話の流れのためのレトリックにすぎません)。歴史的な人物であるイエスの姿勢とイエスが大切にしたもの(人々)、そこに由来するような聖餐式の在り方を大切にするか、あるいは、そのイエスキリスト教会の歴史の中で救い主キリストであると信仰してきた、その信仰を埋め込みながら築かれてきた洗礼・聖餐式を大切にするか。

 イエス主義であっても、キリスト主義が大切にしていることを傷つけない形で、自分たちの思いを大切にする方法はないのでしょうか。一人一人を受け入れるイエスの思いを大事にしつつも、洗礼から聖餐へという道筋に救い主キリストの救いの働きを覚えている人々の信仰を傷つけない形で、聖餐式を行う方法はほかにはないのでしょうか。すべての人が神に受け入れられているというリアリティをわかちあう作法についてもっといろいろ考えることはできないでしょうか。

 他方、伝統的なキリスト主義を主張する人々は、その正しさを主張するだけなく、キリストのケノーシス(自分を無にすること)を思い出すことはできないでしょうか。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙 2:6-8)。

 人を救うためには、「神の身分」という自分の「正しい」姿、自分の「正しい主張」に固執せずに、むしろ、その正しさを捨てて、正しい自分を無にして、僕となり、人間となり、自己の正しさを主張するどころか、むしろ、へりくだり、死を引き受けたキリストに倣うことはできないでしょうか。ケノーシスのキリストに倣うのであれば、そして、すべての人の救いのためには、正しい主張をも無にして、正しくないと思われる道をとる、正しさの主張において自分が死ぬ、そうやって何かを生かす、そのような道はないのでしょうか。

 けれども、わたしが一番願うことは、さまざまな立場の人が、相手の声に耳を傾けることで、新しいことに気付きたいという希望を持ってテーブルに集まる時、それぞれがそれぞれの立場から考えるだけでは生じてこないような、わたしたちが今全く知らない新しい何かが降臨してくることなのです。