(4) 163年か150年か

キリスト教批評(4) 163年か150年か

 日本にキリスト教が伝来したのは1549年とされています。この年、ザビエルが鹿児島に来てカトリックの宣教を始めました。さらに、京都に行き、日本全国で布教する許可を得ようとしますが、天皇に会うことができず、目的はかないませんでした。1551年、ザビエルは日本宣教を困難とし、まずは中国宣教をということで日本を去ります。つまり、ザビエルは日本の中央政権、もしくはそれに近い所で布教したわけでもないのに、1549年が日本におけるカトリック伝来の年とされています。
 
 さて、今から163年前、1846年、イギリス人のプロテスタント宣教師ベッテルハイムが沖縄に来て、その後八年間、布教活動をします。ベッテルハイムを派遣したのはイギリスの「琉球伝道会」ですが、この会は、1816年に沖縄に来て島民に親切にされた元海軍大尉によって設立されました。この軍人は自分が出会った沖縄の人々に「よきサマリア人」のような善良さを感じたこと、けれども、女性の地位が低いと感じたこともあり、ぜひ沖縄にキリスト教を伝えたいと願っていたそうです。この点、ベッテルハイムの目的が海軍大尉の意を受けて沖縄の人々への宣教にあるのか、それとも、そこには、もっと広く、現在「日本国」と呼ばれる地域全域への展開の意図もあったのかは良くわかりません。

 そして、今から150年前、1859年、日米修好通商条約に基づいて長崎、横浜などの五港開かれ、立教学院の礎を築くことになるウィリアムズが長崎に、明治学院創始者となるヘボンが神奈川に来航します。それ以外にもこの年、長崎、神奈川に複数のプロテスタント宣教師が来日しています。

 そうすると、日本にプロテスタントの宣教が始まって今年で何年と数えたらよいのでしょうか。ある人々は2009年を「日本プロテスタント宣教150周年」と位置付けて「記念大会」「晩餐会」などを企画しています。しかし、163年前のベッテルハイムのことを思い起こし、今年を「日本」プロテスタント宣教150周年とするのはおかしいと唱える人々もいます。

 1846年、琉球は薩摩・島津家の統治下にありました。1609年、島津家が琉球王国に侵略し武力制圧し、徳川将軍家がそれを認めて以来、琉球王国は形の上では王国の体裁をとりながらも、実質的には薩摩に支配され、つまり、現在日本と呼ばれる地域の当時の中央政権の傘下にあったのです。そういう意味では、日本のプロテスタント宣教は163年前に始まっていると言うことができるのです。それなのに「150年」と「本土」を中心にした「大会」派の人々が言い張るのはいかがなものでしょうか。

 しかし、問題は年の数え方よりももっと深いところにあるように思います。163年と数える人々にしてみれば、150年と数える人々はその13年前のベッテルハイムの沖縄宣教開始は日本の出来事とはみていない、沖縄を日本と認めていない、という思いがあるのではないでしょうか。

 しかし、これは、沖縄を日本と認めてほしい、ということでもないでしょう。「本土」の「大会」派のような人々が仮に13年前に「日本宣教150周年」「ベッテルハイムから数えて日本のプロテスタントは150年となる」と謳っていたならば、沖縄を安易に日本と同じに考えないでほしい、沖縄独自の歴史を考えてほしい、と思う人々も、きっとたくさんいたことでしょう。

 問題は、沖縄を日本と別枠にしてしまうにせよ、同枠にしてしまうにせよ、薩摩の侵略、支配、搾取、1870年代の琉球処分第二次世界大戦後の米軍基地化という流れの中で、「本土」の人々が沖縄の人々を直接的、間接的に痛めつけてきたことへの反省がないことだと考えます。日本のプロテスタント人口の大半を擁する日本基督教団も沖縄キリスト教団と「合同」すると言いながら、じっしつてきには、日本の政治史・経済史と変わらず、「併呑」していることを反省していないとわたしは考えます。

 しかし、このような考えを持ちつつも、これが最終的な意見とはしたくないという気持ちもわたしにはあります。自分の考えや思いをかたくなにしてしまわないために、自己絶対化に陥らないために、むしろ、変わる喜び、気付かなかったことに気づく喜び、新しいものとの納得的な出会いを求めたいと思います。けれども、そのような開かれた、柔軟で、しかも、紳士的で、謙虚で、なお、しっかりとして議論の場に居合わせたことがありません。

 そこで、対話ではないのですが、150年を訴える人々の心情を、ひとりかってに推測してみることにします。

 まず、163よりも150の方がキリが良い、という感覚があるのではないでしょうか。このような「記念」や「大会」を企画する背景には、今のプロテスタントの宣教を活気づけたいという思いがあることでしょうが、それには、163という、十進法では特別にみえない数字よりも、150という数字の方がアピール性があるのでしょう。しかも25の6倍ということ、四半世紀の六倍、一世紀半、ということにもなるのでしょう。わたしたちは、数字のキリが良かったり、数字が並んだり、語呂合わせができたりすると、無邪気にうれしくなるようなことがありますが、150にこだわる気持ちにもそのような幼い感覚があるようにも思います。(それを「まあ、数字がちょうどよくて、うれしがっているのだね」とあたたかく見守る手もあるかもしれません。もっとも、その背景に歴史への無反省、反省を求められることへの憎悪があれば、無邪気などとは言っておられません。)

 それから、ベッテルハイムは沖縄宣教に来たのか、「本土」も視野にあったのかということにかかわってきますが、150年を言う人々は、1859年のウィリアムズやヘボンたちは「日本全土」を視野に入れていた、ということで、「日本宣教150年」と言うのかも知れません。彼らは日本の中央に大学も建てました。それに、今の宣教を活気づけようということで宣教何周年かを祝うのなら、沖縄よりも、ヘボンらの横浜の方が中央的であるので、全国的にもなりやすい、ということにもなるでしょう。現在の日本全体の宣教を活気づけようとするなら、「沖縄」より「横浜」の方が使いやすいという気持ちが自然と働くのではないでしょうか。

 もうひとつ言えば、150年と言うことで、逆説的ではあるが、163年前のベッテルハイムのことが多くの人々に知られるようになって良かった、と考えることもできるでしょう。しかし、これらはわたしが150年を言う人々の思いを対話なしに想像してみただけのことです。

 じつは、150年を言う人々に163年を言う人々の思いを、もっと自分をへりくだらせて想像してみてほしいと思います。もっとも願うことは、両者が自分の考えを貫き通すのではなく、対話の中で自分が変革され、新しい何かが両者の中で生まれる、そのような出会い方をすることです。