183 「イエスがキリストとして生きつづけた二千年」

 「ナザレの人イエス」(D・ゼレ/L・ショットロフ著、丹治めぐみ訳、日本キリスト教団出版局、2014年)

 本書は、ドイツのふたりの女性神学者たちが、女性を重視する視点、社会の中で虐げられている人々の視点、さらには、ユダヤ教への敵意を反省する視点から、二千年前のガリラヤ、ユダヤの歴史や社会の背景を考慮しつつ、イエスの人物像を描こうとしたものです。

 もう一つの特徴は、福音書は、そのイエスを通して、世界における、とくに、貧しく、抑圧された人々における神の働きを感じ取った人々が描いたイエス像を伝えており、それがさらに後世の人々に読まれ、そこでもまた、イエスとの出会いがあり、イエスが理解されていく、という視点です。イエスは、そのように二千年間、人びとの間に生きて働いてきたキリストだと言うのです。このキリストの姿は、本著に囲み記事として散在しているゼレらの詩にも現われています。

 このような視点から、本著にはあたらしい聖書解釈がいくつも示されています。たとえば、結婚前にお腹にイエスを宿したマリアが歌う神への賛歌は、婚外子を持つ人々が受ける屈辱への終止符だと言います。

 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というイエスの言葉は、皇帝は帝国内住民の身体を自分のものとして所有する権限など本来はもっていないこと、そもそも人間は神によって自由な存在として創られたことを意味すると著者たちは言います。

 福音書の記事からは、イエスとその周りに集う人々は、神が苦しむ人々とともにいることと、陰府の力がすべてを支配しているのではないことを経験している様子が読み取れます。

 人間愛と性愛を断絶させたのは後のキリスト教であり、マグダラのマリアがイエスの足に香油を塗った行為にいくぶんかのエロティックな空気があったとしても、イエスやこの話を語り継いだ人々は、とくに問題を感じていなかっただろうとも述べられています。

 イエス安息日のことを取り上げたのは、仕事も食べ物もなかったり、病気や障害を抱えていたり、蔑視されていたりした人々が、安息日に本来ともなうはずの喜びから除外されているからだとの指摘も新鮮です。イエスの仲間たちが安息日に麦の穂を摘んだのは、安息日でも食べ物がなく空腹を味わわざるをえない人々がいることを示すためだったと言うのです。

 ファリサイ派についても、従来のようにイエスと対立していると述べるのではなく、ローマ支配への民衆の反発心を、両者は共有していると言います。あるいは、キリスト教聖餐式ファリサイ派ユダヤ人家族が食卓を囲む姿を継承していると語られています。

 福音書には病気や心身に障害を抱えた人が数多く登場しますが、その主要な原因のひとつは、飢えと重労働だという指摘もあたらしく感じました。

 さらに、右の頬をなぐられたら左の頬を、とは、相手の暴力を暴いて、止めさせる戦略であるとか、他者とともにあるとは貧しさや屈辱を意味するとか、女の人が銀貨を必死になって探すのは女の人がそれを稼ぐのには相当な苦労が必要だからとか、神の国とは神の他には王はいないという政治的ヴィジョンであるとか、終末は歴史のではなく苦しみの終わりであり、神の近さは時間のことではなく希望の強さのことであるとか、イエスの十字架はユダヤ宗教を背景すとする解放運動への弾圧政策の一端であるとか、そのイエスに従う者は政治的危険因子と見なされるとか、イースターは歴史の外への脱出ではなく歴史の中で自由のない状態から解放された歴史を記念するものだとか、復活は不正義がいくら横行してもそれが最終的な勝利をおさめることなどないという希望であるというような興味深い見解が示されています。

 わたしたちがその時代の世界に生きることによって、聖書の読みは深められ、聖書を読むことによって、その時代を生きる意味と希望が創造されていきます。あるいは、聖書を読む、世界を生きる、省察することの間の循環の重要さが思い起こされます。史的イエスの時代にはじまって今日までの二千年間、自分の生きる時代の中でイエスに何らかの形で出会った人々に、イエスはキリストとしてご自分を顕わして来たのだと思います。

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