15 聖書原理主義の一面

「福音と世界 2011年3月号」のある記事で、洗礼を受けていない人にも開かれた聖餐式を行っている牧師を免職にする側の根底には「聖書を字義通りに読む聖書原理主義」があると述べられ、はんたいに、その牧師を支持する側を歴史的批判的聖書研究と結び付けるようなニュアンスがありました。

それに対し、以下の文を編集部に送り、「読者の声」として掲載していただきましたが、直接の反応は一件だけでした。
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「聖書を字義通りに読む聖書原理主義」が「問題の根底」にある、とT氏は述べていますが(2011年3月号、p.34以下)、はたして、そう言いきれるのでしょうか。わたし自身はファンダメンタリストではありませんが、こう呼ばれる人々にもいろいろあると思います。

誰かが「聖書は神の霊感によって書かれたもの」と語る時、これが、「聖書から読み取るメッセージによってわたしは支えられている。聖書はわたしにとって何よりも大事なものだ」ということの、一つの表現であるなら、わたしは誰かがこう語ることを大切にしたいと思います。けれども、これが「聖書は神の霊感によるからそこに書かれていることはすべて正しい。その正しさをわかっている自分も正しい」という意味なら、受け入れることはできません。じっさいには、このふたつは、「聖書を字義通りに読む」人々の中に、人によってさまざまな比率で混在しているのではないかと推測します。

そして、洗礼を受けていない人にも開かれた聖餐式を行っている牧師を免職にしたという「問題」を乗り越えていく糸口のひとつは、「聖書を字義通りに読む」人々の中にある程度存在する思い、つまり、聖書は自分の根っこを、自分のすべてをささえてくれるという思いを理解しようとすることではないでしょうか。

わたし自身は免職された牧師の側に立ちたいと思いますし、洗礼と聖餐、それぞれの意味、両者の関係について、暫定的な判断はもつにしても、それを決定とせず、扉は開いておきたいと思いますが、どうじに、「まず洗礼を受けてから聖餐にあずかる、ということが教会の歴史において行われてきたのだから、その順序は大切だ」と強く思う人々がいて当然だと思います。表面的には、洗礼、聖餐の順序の問題にこだわっているように見えますが、そこには、自分の実存の拠り所としてきたものがこわされるという恐れがあるのだと思います。

T氏が創世記の思想のひとつに「多様性の祝福」を見出すのは、歴史的批判的聖書研究の合理的結論ではなく、その作業を通して与えられたインスピレーションではないでしょうか。氏が現代社会における経験や思索の中で、多様性を大切にする思想を築き、それを原初史にも見出したのではないでしょうか。

聖書を字義通りに読む人々の中にも、聖書によって支えられていることを大切にし、それを「聖書は一言一句、神の言葉だ」という表現にしている側面があるのではないでしょうか。このことに注目することから問題を乗り越える道を望みます。