キリスト教批評(2) 聖餐式

 キリスト教会の多くは、洗礼を受けた人だけが聖餐式のパンとぶどう酒(あるいはぶどうジュース)を受け取ることができるとしています。けれども、聖餐式を洗礼を受けた人だけに限っていない教会もあります。同じキリスト教といっても、前者のような教会ばかりでなく、少数ながら後者のような教会もあることをどのように考えたらよいでしょうか。

 どの教会もキリスト教会と名乗る限りは聖餐式は洗礼を受けた人だけにするように統一されていなければならない、という考える人が多いことでしょう。なかには、この考えは絶対にまちがいない、と執拗に主張している人びともいます。この人たちは、洗礼式も聖餐式も人間の救いのためには必須条件であり、しかも、洗礼式を受けてから聖餐式へという順序に固執しています。キリスト教会ならどの教会もそうしなければならないと言います。

 ところが、この対極として、「どの教会も洗礼を受けていない人の聖餐式参加を認めるべきだ」という考えも理論上は想定しうるのですが、じっさいにはそのような意見か聞いたことがありません。つまり、このどちらの極を選ぶのかというのではなく、両極の間にさまざまなバリエーションを考えなくてはならない、とわたしは思いますし、じっさいに、どの教会も洗礼を受けていない人の聖餐式を認める必要はないが、ある教会がそう認めたことを尊重しようと考える人がかなり存在するように思います。

 また、洗礼も聖餐も形骸化した儀式に過ぎないのでやめるべきだという極端な意見も、一度だけですが、耳にしたこともありますが、これは、洗礼や聖餐式は人間の救いの必須条件であるという主張の対極であるようにも思えます。けれども、この場合でも、両極の間にさまざまなバリエーションを考えなくてはならないでしょうし、じじつ、存在するのです。

 わたしは、洗礼や聖餐はひじょうに大切なものだと思いますし、大事にしたいと思いますし、そうしてきたと思っていますが、かといって、洗礼を受けていない人が救われずに滅びるとか、パンとぶどう酒を受け取らない人(あるいは渡されない人)がイエスからいのちの祝福を受け取れないなどとは考えません。わたしは、聖餐式を洗礼を受けた人だけにとどめる教会もあれば、教会全体で熟慮熟考の上、洗礼を受けていない人にも聖餐式を開く教会もあってよいと思います。キリスト教会全体や教派全体や教団全体を、どちらか一つのあり方に一致しなければならないことはないと思います。

 教会やキリスト者聖餐式において洗礼を受けていない人とどのように出会うのかは、規則や教義の問題ではありません。規則や教義が出てくるとしても、それは、まず礼拝という神さまのリアリティ(神さまの働きを感じること、感じられる神さまの働き)から出発して、それを表現するというものでなければならないでしょう。

 わたしは牧師として聖餐式をゆだねられたとき、洗礼を受けていない人たちも、洗礼を受けていてパンとぶどう酒を受け取る人たちとともに礼拝堂の前方に進み出て、横にならんで、わたしの祈りを通した神さまの祝福を受けてくださるようにお願いしています。

 そういう一人にSさんがいます。Sさんはおつれあいがお亡くなりになってしばらくしてから教会に通うようになりました。おつれあいはそれ以前に十年くらい教会に通っていましたが、洗礼は受けませんでした。Sさんはその間は教会に来たことはありませんでした。おつれあいが真剣に何かを求めて出かけて行っている場所についていって邪魔をしてはならないとお考えだったそうです。しかし、おつれあいが亡くなってからSさんは毎週のように教会に来て、礼拝の説教も熱心に耳を傾け、入門講座にも数年間出席しておられます。けれども、Sさんはご主人と同じお寺のお墓に入るために洗礼は受けないと決めておられるようです。

 Sさんは生涯洗礼を受けないでしょう。ではSさんは滅びてしまうでしょうか。聖餐式でSさんも含めて皆が横に並ぶ時、洗礼を受けている他の人々は救われ、Sさんは滅びるというようなグロテスクな思いを持つことができるでしょうか。いや、わたしはSさんも神さまの愛と救いの中にあると思います。

 けれども、それは、Sさんが熱心であるからではありません。洗礼を受けていない人に聖餐を認める議論として、「洗礼を受けていなくても信仰を持っている人がいるから」、というものがありますが、わたしはこのような考えには賛成できません。洗礼の代わりに信仰を持ち出してみたところで、それは条件付きの救い、取引による救いに過ぎないからです。

 救いの根拠はそのような人間の行為や思考による取引にではなく、神さまがお造りになったすべてのものを御覧になったときの「それは極めて良かった」(創世記1:31)というお言葉にあると思います。

 そして、神さまの「それは極めて良かった」というお言葉は、わたしたちが人に出会う時に、「自分が出会ったこの人、自分の目の前にいるこの人は救われないなどと言うことはできない」という思いを呼び起こしてくれるのだと思います。Sさんが教会に来続けている理由の一つとして、おつれあいとのきずなのリアリティを確認しておられることもあるように思い、聖餐式のたびに、わたしはSさんに「神さまがあなたとあなたのご家族をいつもひとつに結び合わせていてくださいますように」と祈ります。

 そして、Sさんはこの祝福によっても、おつれあいとのきずなを強く感じたり、あるいは、いつかかならず再会できるという希望を抱いたりしていることでしょう。つまり、実感であっても希望であっても神さまのリアリティ、むすばれたいのちのリアリティを、聖餐式の列での祝福から受けていることでしょう。そして、Sさんの隣にいる洗礼を受けている人の場合は、そのリアリティを、パンとぶどう酒から受けているのだと思うのです。

 今、目の前にいる人が、洗礼を受けていなくても、この人も「それは極めて良かった」という神さまの祝福の内にある、この人が救いから外れて滅びにさだめられているなどと言うことは決してできない、というようにわたしが感じる、これまた神さまのリアリティを、わたしの場合は祝福で表現していますが、それをパンとぶどう酒で示す人がいても、そんなことはありえないこと、許せないことなどとすることはできません。

 パウロは異邦人も神さまの救いのうちにあると訴えました。それはローマの信徒への手紙などに、いわば神学として表現されていますが、わたしは、神学以前に、パウロが異邦人と出会い、友情を交わし、心があたたまり、この人たちはユダヤ人ではないけれども、この人たちが神さまの救いの外にあるなどと言うことはできないという熱い思いがあったのではないかという空想を捨てることができません。