(1)前口上 090522

 文字を用いて意見を述べあう活動がもっと盛んになることが今の日本のキリスト教には求められているのではないでしょうか。キリスト教内の新聞や雑誌には、建設的な議論の機運を高め、場を提供し、流れを創り出してほしいと思います。また、キリスト教の外からの論評もほしいところですが、これには、キリスト教を画一的な目で見るのではなく、そこには多様な形があることが理解される必要があると思います。
 最近では、洗礼を受けていない人を聖餐式に受け入れる牧師の是非について、かなり言葉が交わされてきましたが、これを非とする側は結論先にありきで、一歩立ち止まってじっくり考察する態度が欠けていました。わたしたちが望むのはそのような反射的な言葉の応酬ではなく、深く考えるための場です。ある編集者はキリスト教論壇を築きたいと言っていましたが、まったく賛成です。
 そのような思いがありますが、残念ながら、わたしには論壇を形成したり、何層をもなすような深くて強い論考をしたりすることはできません。けれども、自分の考えの表面の土を削ることくらいはできるかも知れません。そういうわけで、ネット上に定期的に載せることをペースメーカーにしながら、これから考えることを始めたい、そして、しばらく続けたいと思います。
 では、具体的にどのようなことについて考えることにしましょうか。まずは、上にあげた洗礼を受けていない人の聖餐式について、真や正という角度ではなく、各人にとっての「大切さ」や、礼拝という文脈、神の働きを感じるリアリティから考え直してみたいと思います。
 それから、一見矛盾する二つの事柄の関係について考えてみたいと思います。たとえば、「そのままで大丈夫」と「あきらめない」、「神は必ずこの苦しみから救い出してくれる」と「この苦しみを魔法のように解決してくれるわけではないが、神はともに苦しんでくれる」、「隣人を愛しましょう」と「自分以外の人間を愛することなどできない」、「聖書に書いてあることはすべて真実」と「聖書に書いてあることなど皆うそっぱち」。じつは、前者と後者のあいだにもさまざまな考えがありうると思います。それらをていねいに探していきたいと思います。
 あるいは、聖書で述べられているメッセージを神やキリストという言葉を用いないで、より一般的な言葉や、あるいは、聖書よりさらに文学的な言葉で言えばどうなるかということにも関心があります。
 そして、一番大きな課題は人間のさらなる価値を見出すことだと思っています。脳の情報処理能力、論理力、表現力、掘り下げて考える力、複雑に考える力、運動能力、持久力、体力、芸術の技術や感性、心の優しさ、冷静さ、温厚さ、情熱、経済力、交友範囲。これらが劣っている者は自分の価値を低く感じます。生きているだけで価値があると言われても、生きている以外の価値も持ち合わせたいと思います。そのためには今一般に列挙されている以外の価値を発見したいと思います。ようするに、自分が生きていることの価値を、優劣の軸以外に、また、生きているということ以外にも見出して、それを支えとしたいのです。聖書の言葉を糸口にそのようなことを考えたいと願っています。
 次週は、まず、洗礼を受けていない人の聖餐についてです。