「経済」と言うと、お金の流れのことだと思う人は少なくないでしょう。そして、自分が生きるためには、お金を獲得し、所有しなければならない、と。
けれども、この本では、お金だけでなく、お金を補う、さらには、お金に代わるかもしれない、「つながり」こそが、わたしたちの「生活」(生きること)を支えてくれることを教えてくれます。「つながり」ですから、とうぜん、「自分」「わたし」ではなく、「わたしたち」になります。
たとえば、「時間銀行」。これによれば、たとえば、誰かのために3時間ペンキ塗りの仕事をした人は、今度は自分のために何時間か他の仕事を提供してもらうことができます。こうして、人と人とが「つながり」ます。
たとえば、「社会的連帯経済」。「社会的経済」は「協同組合」「NPO」「財団」「共済組合」など。「連帯経済」は「貧困層が自力で問題を解決しようと創り出してきた経済活動・運動」など。
たとえば、つぎのような公教育。「公教育の役割は、本来、子どもたちに競争をさせ、「能力」によって分けていくことではなく、社会・経済的条件や障がいの有無などの個人的状況に関係なく、すべての子どもが多様な人とすごし、さまざまな知識に触れて、市民として育つ場を提供することなのだ。そう理解している教員は、学力アップよりも、いろいろな子ども・大人とのつながりの中で自由に育っていくことが、子どもたちの人生にとってより重要だと考える」(p.141)。
子どもたちだけではありません。大人も「つながり」です。「子どもたちが、多様なつながりの中で生きることによって、人間としての成長と安心を得られるように、私たち大人も、資本主義的な価値基準による分断から脱出し、互いを知り合い、つながることによってこそ、希望と生きがいを手にすることができる」(p.149)。
「多少面倒でも多種多様な人と過ごし、時に語り合い、議論し、つながりを持っている方が、人は精神的にたくましく自由になり、豊かな社会が築かれる」(p.172)。
その通りだと思いますが、そうだとすれば、公教育は、「多少面倒でも多種多様な人と過ごし、時に語り合い、議論し、つながりを持つ」方法、技術、習慣をわかちあってほしいと思います。わたしたちは、この点ではあまりにも未熟で、議論というより、「言い合い」をし、「つながり」どころか「分裂、敵対」を繰り返しています。
「お金があろうがなかろうが、世の中が求める「能力」があろうがなかろうが、他人と違っていようが、人は本来、つながりの中にいさえすれば、生きる道を見つけられる。一人ひとりが、そのつながりの中に身を置きながら、自分らしい学び方や働き方、生き方を築いていくことができれば、そうした人間が集まる世界の姿は、真に寛容で豊かなものになるだろう」(p.172)。
新約聖書にこういうことが書かれています。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(使徒言行録4:34-35)。
これが分配されずに教祖一人の足元に置かれるとカルトになってしまいます。
けれども、二千年前に生まれたばかりのキリスト教会には、このような、集う者同士の「つながり」があったのではないでしょうか。
そうであれば、高齢化で縮小の一途をたどっているように見える現代のキリスト教会も、つながり・・・キリスト教信仰的に言えば、神とのつながりと人とのつながり、あるいは、神を中心にした人と人とのつながり・・・の場として生き続ける道も開かれるかもしれません。