カバーに「牧師×福祉」とあります。著者の佐々木さんは牧師の仕事と福祉の仕事をしておられます。「ぼくし」、「ふくし」。一文字しか変わりません。
本書には、副題の通り、「福祉の実践」が書かれているのですが、ぼくには、これはそのまま、「牧師の実践」に思えました。
人の前で謙虚になる。自分が打ち砕かれる。耳を傾ける。どん底での希望の光を、ともに受ける。これは、まさに、福祉の仕事であり、牧師の仕事です。
「この本で伝えたいことは、「人は他者との出会いによって変わることができる」、その一言に尽きます」(p.2)。
福祉サービスの利用者や牧師と出会った人だけが変わるのではありません。ケアする側も牧師も変わるのです。佐々木さんは、上から見下ろす視線ではなく、ならんで交わす視線を大事にします。
「あれから何年か経って私は、教会で福祉の働きを始めた。そこにはキリストが、絶え間なく様々な姿でやって来る。要介護の高齢者、疾患の苦しみを抱える人たち、全財産が数百円の貧しい人たち、前科のある人、孤独な一人暮らしの人たち」(p.10)。
この背景には、佐々木さんの救いの経験があります。
「神さまという方は、社会の枠からはみ出し、さまよっていた私を探し出し、丸ごと受け止め、こんな無様な状態であるにもかかわらず、私の存在を喜んでくれていると感じたのだ」(p.21)。
ここに、「牧師×福祉」の実際があります。牧師だから福祉の仕事をするのではなく、牧師の仕事として福祉の仕事をし、福祉の仕事として牧師の仕事をするのです。というか、「牧師の仕事」と「福祉の仕事」の本質的な区別はなく、ひとつの実態なのでしょう。
「今、一番つらいことは何ですか」(p.109)と尋ね、そこから、「その人の悲喜こもごものライフヒストリー(個人史)を理解」(p.113)し、そして、敬意と謙遜をもって「あなたは今日までよくがんばって生きてきましたね。どんな夢があるのか教えてください」(p.16)とお願いします。
これも、まさに、「牧師×福祉」です。
「私は、死の淵に立つ人から逃げず、共に死を見つめる存在になりたい。「あなたは独りで死んでいくのではない」。介護者の一人ひとりにもそうなってほしいと願っている」(p.103)。
これは、介護者全般に向けられた言葉であり、かならずしも、宗教色を帯びていません。表現としては「福祉」の言葉であるかも知れません。
けれども、この言葉は、「こんなオレを友として、これからあちらの世界まで共に歩んでくれる神さまを信じてみたい」「佐々木さん、ありがとう。もう独りじゃない。嬉しい。天国で待ってるよ」(p.95)と、キリスト教信仰の出来事としても表現されています。この方は旅立つ前に佐々木さんから洗礼を受けたのです。
これは、「福祉事業」の背景に「キリスト教精神がある」、などという抽象的な理念ではありません。イエス・キリストに救われた佐々木さんがキリストとともに人びとと出会う具体的な何年もの日々。それが佐々木さんの「福祉」なのです。
イエス・キリストの地上の日々も、その直後に始まった、いにしえのキリスト教会も、こんな姿だったことでしょう。