781 「神学などと言わず、証しと言おう」 ・・・「証し 日本のキリスト者」(最相葉月、KADOKAWA、2022年)

 キリスト教の牧師を30年近くやっているが、ぼくの話は「証し」ぽくない。難解な理屈っぽいことは語らないが、「ぼくはこう信じている」というよりは「聖書によれば、神はぼくたちにこうしてくださる」ということを中心に述べる。

 

 具体的には、神は無条件でぼくらを愛してくださる、神はいつでもどこでもともにいてくださる、ということだ。

 

 けれども、「神」を主語にする語りだけでなく、「ぼく」「わたし」を主語にしたメッセージも教会や信仰生活では求められる。そのお手本として、この書にある135人の証を読んでみようと思った。

 

 一挙にではなく、少しずつ頁をめくり、一年かけて、昨日ようやく読み終えた。1100頁。

 神学書には、信仰を基盤としているとはいえ、キリスト教や聖書の思考や思考が整理されてか記されているが、この本には、信仰者の人生や思いが満ちている。

 

 たとえば・・・(最相葉月〈著〉とあるが、以下の引用は、各信仰者の言葉を最相さんが文字化したもの・・・)

 

「神様の家族の一員になれるし、やっぱ天国に行けるっていう約束をもらえたのが嬉しかったです」

「主語が変わった気がします」・・・おそらく、主語が「わたしは」から「神様は」になったということだと思います。

 

「夫は愛してくれないけれど、神様は愛してくださる」・・・「夫は」を「誰も」に変えても良いでしょう。

 

「干からびていた気持ちが潤っていくようでした」

 

「洗礼によって人格は変わりませんが、生きる基盤が与えられたと思いました」・・・人がすっかり変わったという人もいれば、ものの見方が変わったとか、良いことが起こるように変わったとか、いろいろだと思います。

 

「親子の愛をはるかに超えた神様の愛に、おいおい泣いてしまいました」・・・そうなんですよね。聖書では神さまの愛は親の愛にたとえられることが多いのですが、人間の親にはかなり限界があって、そういう意味では、神さまの愛は親子の愛をはるかに超えていると思います。

 

「牧師の子どもはいびつに育つ子が多いんです」・・・ぼくもいびつな一人ですが、まっすぐな方もおられると思います。でも、牧師家庭では子どもにある種の重荷がのせられることは否定できないですね。

 

「神様の働きというのは三つの方法があって、人を通して働く、出来事を通して働く、み言葉を通して働く」・・・人にも出来事にも聖書にも神さまの愛や促しが感じられるとよいですね。

 

「神様とつながっていることに信仰の意味があると思う」・・・そう、つながりって大事ですよね。

 

「罪があろうが、神はあなたを大切にして、あなたを高価だといい、命まで懸けてくれているんだ」・・・大切、高価という言葉が大切だよね。

 

「避けどころのない苦労をしたときに私を引っ張ってくれたのは、人間じゃなかった」

 

「教会は民族の癒しの場所です。在日の教会は全国どこもそうやないですかね」

・・・このふたつは友人のお母さまの言葉だと思う。

 

「いつのまにか、イエス様とご一緒になりました。いつも一緒なんですよ。助けてくださいましたね、いつも見ていてくださいましたね」

 

「私、がんばったけど、それは神様のおかげ。やっぱり苦しいときがあるんですよ。だから神様、苦しい、神様、助けってくださいって、お願いします」

 

「「今日、百合子さんとご家族がお茶の会に来られたのは神さまの恵みです」って。最初は違和感を覚えましたけど、考えてみれば確かに、私はこんなふうに日常生活に落とし込むことを」・・・神様がいつもともにおられ働いておられることを日常の出会いの中に「落とし込む」と、そのお茶会は神様の恵みということになるわけです。これも世界観、人生観ですね。

 

「人間の力ではどうしようもないことが世の中にはたくさんあるんだと、そのことを忘れないために私はクリスチャンになったんだと折にふれて思うようになりました」

 

「信仰には積み上げはない。ただ、右往左往はあります」・・・そのとおり! 名言ですね。ぼくも信仰生活数十年ということですが、上昇もしていないし、深まってもいないです。おろおろはしてきましたが。

 

カトリックプロテスタントでは、私たち人間はすべて罪を背負って生まれてきた罪深き存在だといいます。原罪だといいますが、みなさん、これをキリスト教だと勘違いしていますね。聖書を読むとそんなことは書いていません。まず、人は神様から造られた尊い存在だと、神様の似姿だと。それを前面に打ち出すのが正教会です」・・・尊い存在、似姿というのはその通り。ただし、原罪のことが書かれているという聖書の読み方もありますね。

「人間を見たら罪人だと思えというのがカトリックで、人間を見たら神様を見なさいというのが正教会です」・・・正教会のようなポジティヴな人間の見方はたしかに大切ですね。

 

「聖書をなんぼ読んだって、信仰はもてません。たくさんの人がキリスト教の学校を出ていますけど、聖書を毎日学びながら学校を出ても、信者になる人はわずかでしょう」・・・元ミッションスクールの聖書の教員としてはおおいにうなづきます。

 

「信仰というのは、神様から与えられなくちゃ、どんなに私たちが努力して求めてもつかみとることはできないものなんです。神様がくださるもの。だからこそ、福音と言えるのです」・・・そうですね。こういうのは、神学とか教理とかではなくて、まさに、証し、信仰ですね。

 

「聖書に出てくる盲人は、イエス様によって癒されます。でも実際には、癒されない盲人がほとんどですよ。じゃあ、癒されない盲人は神の業を現すことはできないのでしょうか。私はそうは思いません。癒されないままに神の救いが与えられて生涯を終えられたら、そのこと自体が神さまの栄光を現すことになるといえるのではないでしょうか」・・・これは生涯をかけた、信仰の、深い証しですね。すばらしい。

 

 知っている人、つながりのある人がかなり出てきます。先日天に召された牧師さんは、「神学などと言う必要なない、信仰と言えばよい」と言っておられました。「証し」と言うのもよいでしょうね。

 

https://www.amazon.co.jp/%E8%A8%BC%E3%81%97-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E8%80%85-%E6%9C%80%E7%9B%B8-%E8%91%89%E6%9C%88/dp/404601900X/ref=sr_1_1?crid=2E4N2HIPBDTJO&dib=eyJ2IjoiMSJ9.-hHMiXnMx0KkAFdg2Q31K_iEUzHM5FzrSblYQ0KZTCyvLhLQBcUz1Mu1MXXQk1g4aW88QN4k9IjUuBjA9hDuxsUGrLgwYG-szEqdCtQ4sZ4IYNJOQYzwq1TiwkMvtrvwvSFIHc8DcFlO4tamYDI0I5cnW6eAheSOySlIVmU6ZZcMIc0JPh7THQj8oXZFiKUlJ0d0ukJjM9Lw25SeDou0Zd_np-IDGuWOZDG8tuEBXlwA9ci5Ex7bF7zvw1mF7RowYRgSGeuX7wLu7HmkayUoPahKLdr3QUuySQFsg-F22mE.U_p2cA7GzS8rIaG4MYU7EvUgX7-iUi8PjPPDVWUqNt8&dib_tag=se&keywords=%E8%A8%BC%E3%81%97&qid=1709950941&sprefix=%2Caps%2C173&sr=8-1