417 「仏教に触れ、キリスト教を深める」  「高校生からの仏教入門 釈尊から親鸞聖人へ」(小池秀章、本願寺出版社、2009年)

 人が救われることがあるとすれば、自分の精神や行為によるのではなく、人の外にあり、かつ、人を救おうとする意志、宇宙的意志、真理、絶対者、叡智によるものでなければならない。いや、これによって、すべての人は救われる。

 これにまさる宗教理論、教義はないだろう。救いについての人の絶望的状況を熟視すれば、論理的にも、これ以外に救いの道はない。

 ぼくは、このことをキリスト教(のある)思想と、その背景にある聖書(のある部分と、そこからみた聖書全体)から学んだが、本書を読み、800年前、親鸞も仏教を通してそれを伝えていたことを知った。

阿弥陀仏は、『真実の世界から、真実を知らせるために人格的に現われてくださった仏さま』」(p.169)。

 イエスは、神のもとから来たが、人間として生き、かつ、真理そのもの、だと聖書は言う。

阿弥陀仏は、『限りない智慧と慈悲の仏さま』」(同)。

 聖書は「主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方」(ヤコブ5:11)、「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちに慈しみをお示しになった」(エフェソ2:3)と言う。

 「阿弥陀仏は、『すべての人を必ず救うという願い(本願)をたて、はたらき続けてくださっている仏さま』(p.170)。

 ヨハネによる福音書は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と言う。

 「浄土真宗では、私がどんなに一生懸命に信じても救われません。なぜなら、私の心ほどあてにならないものはないからです」(p.185)。

 キリスト教においても、「信じる者は救われる」とは「信じた結果として救われる」という意味ではない。ローマの信徒への手紙は「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」(5:6)と言う。

 さきに「宗教理論」と書いたが、これは、人間が編み出した理論ではなく、今生かされている事実、ここにある世界、その深奥にある世界の源=真理、これらから予感させられる「根本的な意志」を書き写そうとした言葉であろう。

 わたしを生かすその意志、ここにあらしめるその意志に、キリスト教も仏教も触れ、伝えようとしているのではないか。

 この書を読んで、キリスト教や聖書への理解が深められた。

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