目に見えないもの、霊的なもの(この言葉のイメージは多様である)を忘れ、目に見えるもの、あるいは、合理的なもの、測定可能なもの、金、財産、権力、利便などにのみ関心を持つようになることを世俗化と呼ぶなら、本書のテーマは、世俗化、あるいは、無神論、あるいは、ニヒリズムに対して、どのようにキリスト教思想は向き合ってきたか、ということであろう。
バルト、ブルンナー、ゴーガルテン、ブルトマン、二ーバー兄弟、ティリッヒ、ボンヘッファーなどの神学者、そして、マルクス、ドストエフスキー、ヴェーバー、キルケゴール、ブーバー、マルセル、サルトルなどに言及されているが、それ以降のポストモダン的な思想家にまでは至っていない。
書下ろしではなく、論文、エッセイの収録であるから、必ずしも流れがスムーズではないし、重複もある。それでも、ぼくら20世紀の残党には、ノスタルジックな一冊となるかもしれない。
「この世俗的な大衆の特質は、実に不可解なことに、他者との人格的な関係を無視して自己を主張するところに示される」(p.35)。
そのとおりで、ますます顕著になっている、と思う。
「宗教心は人間の心に最も深いところに宿る「霊性」とも言われているが、これが働かないと理性や感性に対する抑制やコントロールを失い、理性のみに頼る極端な合理主義者や道徳主義者とか、感性にのみ従う悲壮な芸術家や恐ろしい快楽主義者などを輩出させている」(p.237)。
近現代だけのことではなさそうだが、学者、芸術家、歌手、俳優らの中には、その文章、作品、歌唱、演技が表現している美とは正反対の俗人がいる。美は、その人ではなく、作品、演技に属するということか。美をその人自身に戻らせるのは、霊性の働きなのだろう。
「政教分離の原則によって社会の中心にキリスト者の交わりとしての教会を立てることを断念し、社会に対し伴侶(パートナー)として連帯することを志すべきである。しかし、それは社会のなかに埋没するのでも、福音を放棄するのでもなく、前述のように批判しながら大衆と共に立とうとする。これが「批判的連帯」(H・D・ヴェントラント)の主張である。)(p.260).
世俗化以前の西欧社会ではキリスト教が権力の中心にあった。すくなくとも王らとその座を競った。しかし、世俗化社会によって、キリスト教はそこから追われた。それは、むしろ、よいことであろう。批判的連帯、これは、預言者的連帯と言ってもよかろう。キリスト教の世俗化が、権力の放棄、権力の批判にあるのなら、それは、望ましい。
イエスの言った「神の国」も、神権政治ではなく、ぎゃくに、政治的無関心、逃避でもなく、王の国、皇帝の国、権力者の国に対する、目に見えない、しかし、権力放棄と愛による批判ではなかったか。