737 「何が違うべきで、何が同じであるべきか」 ・・・ 「「みんな違ってみんないい」のか? ――相対主義と普遍主義の問題」(山口裕之、ちくまプライマリー新書、2022年)

 タイトルを見ますと、多様性を否定している、と誤解されるかもしれませんが、そうではありません。

 

 「「正しさは人それぞれ」や「みんなちがってみんないい」という主張は、本当に多様な他者を尊重することにつながるのでしょうか」(p.3)と著者は言っていますから、多様性は大事にしているのです。

 

 「共同作業によって「正しさ」というものが作られていく・・・それゆえ、多様な他者と理解し合うということは、かれらとともに「正しさ」を作っていくということです」(p.9)。

 

 これに対して、「みんなちがってみんないい」は多様性の尊重を装いながら、じつは「「正しさ」を作っていく」すなわち「多様な他者と理解し合う」ことを避けていると著者は言います。

 

 「「正しさは人それぞれ」とか「みんなちがってみんないい」といったお決まりの簡便な一言を吐けば済んでしまうような安易な道・・・これらの言葉は、言ってみれば相手と関わらないで済ますための最後通牒です・・・対話はここで終了です」(p.9)。

 

 「みんなちがって みんないい」はもともとは金子みすゞがいのちをかけた言葉ですが、それが、このように利用されてしまっているのです。

 

 「文化相対主義的な主張は、「正しさは人それぞれ」(個人単位の相対主義)と同じような主張だとよく誤解されるのですが、両者はまったく異質な考え方です」(p.32)。

 いるかを食べるのは良くないなどと言う人もいますが、いるかは鯨であり、日本には鯨を食べる文化がありました。これは尊重されるべきでしょう。食文化は文化集団によってそれぞれです。けれども、これは、わたしは人を殺しても良いと考える、あなたは人を殺してはいけないと言う、人それぞれです、などという主張とはまったく異なると言うのです。

 

 「人それぞれ」には大きな問題がいくつかあります。

 

 「抑圧されている人たちが連帯するためには、まずは「女性」や「黒人」や「同性愛者」といった既存の名前やカテゴリー(抑圧すべき対象を指定するために権力が作ったカテゴリー)を受け入れなければなりません。それはつまり、自分たちを抑圧する既存の社会秩序をいったんは受け入れるということです。それを拒否して、「人それぞれ」とか「言葉では表現できない」などと言っていては人々は連帯できず、個人単位に分断されてしまいます。それでは国家権力に鎮圧されてしまう」(p.37)。

 「女性」「黒人」「同性愛者」もひとりひとり他とは違う点をいくつも持っていますが、「女性」「黒人」「同性愛者」と権力によって枠をはめられ差別されている点では共通しています。このとき、「人それぞれ」は権力側の差別隠蔽に使われてしまうと言うのです。

 

 ですから、著者は、「新自由主義こそが「人それぞれ」の思想だ」(p.40)、と言います。新自由主義とは、たとえば、人は皆自由だから国家が関与すべきではない、国家が貧者救済などすべきではない、国家は人それぞれの経済活動の自由を保障するだけだ、その結果も人それぞれだ、という考え方です。

 

 「正しさは人それぞれ…この言葉は、一見すると多様性を尊重するよい言葉のように見せかけておいて、その実、個々人を連帯から遠ざけて国家にとって支配しやすいバラバラの存在のとどめておくのに都合のよいものだったのです。多様性を求める一九六〇年代の学生や市民の声は、権力にとってまことに都合のよい「正しさは人それぞれ」という形に骨抜きにされて広まったのです」(p.42)。

 

 「「人それぞれ」と言って済ませてしまえば、そうした多様な立場を理解したり、多様性を認めつつ連帯したりといった道が閉ざされてしまう」(p.44)。

 「人それぞれ」と言ってしまうことの問題点は、このような新自由主義による悪用だけではありません。

 

 「「言葉が異なると世界の見え方が異なる」とか「結局のところ異なる文化を理解することはできない」といった俗説が誤りである」(p.10)。

 

 これはどういうことでしょうか。

 「人それぞれ」「みんなちがってみんないい」というほどには、人は違っていない・・・人間は白紙の状態で生まれてくるのではなく、動物の一種として、同じような身体と感覚器官や脳を持って生まれてきます。それだけでなく、人間の考え方や感じ方、ふるまい方などの精神的な側面についても、かなりな程度、生物学的な習性が反映されているようなのです」(p.82)。

 

 これは、人間は皆同じことを考える、というような乱暴なことを言っているのではなく、「言語や文化の多様性は人間にとって理解可能な範囲にとどまる」(p.82)のです。

 

 たとえば、言語の構造は違っても、言語と呼ばれるものがある、という点は、どの文化にも共通しています。りんごをりんごと呼ぶかどうかは、文化や個人によって違うかも知れませんが、それを何かの名前をつける、名前で呼ぶ、という点では共通しています。

 

 「人は一人ひとり異なる個別的な存在です。しかし、お互いに理解不可能なほど異なっていることはない。人は、同じ生物種として基本的に同じような感覚器官や身体構造を持っており、同じように感じたり考えたりします。事実として、人はそれほど違っていないのです」(p.213)。

 

 ある人は、戦争は絶対にしてはならない、と言います。ある人は、戦争をせざるを得ない場合もある、と言います。この両者は、理解不可能なほど異なっていないのかもしれません。「戦争をせざるを得ない」という人も「戦争はどんどんすべきだ」と言っているわけでなく、「しないほうがよいが、仕方がない」と言っているのです。そうすると、そこには、戦争はすべきではない、という共通理解があるのかもしれません。生物種として、人間は他者を殺すことに大きな苦痛を感じるそうです。

 

 なかなかうまくはいきませんが、議論をする、戦争に反対する、差別に反対する、ということは、相手にも共通の点があり、それに基づいて、変わりうる、と考えている、ということでもありましょう。

 

 「みんなちがってみんないい」自体が「みんなちがってみんないい」という「おなじ」理解になりたっているのではないでしょうか。

 

 

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