前書きによれば、「伝説的な学部生向けの授業で、フライが釘を刺して言ったのは、聖書が歴史的に正確な場合、それは偶然そうであるに過ぎず、聖書の記者は事実を伝えることにこれっぽっちの関心も持っていなかったということだった。彼らには語るべき物語があった。それは神話や隠喩によってしか語れなかったのであり、彼らが書いたものは、教義の源泉というよりは、ヴィジョンの源泉となった」(p.7)。
つまり、聖書に書いてあることを読んでも、イエスという人物の歴史上の姿はわからない、というか、聖書の記者は、それを伝えようとしていたのではなかった、というのである。では、何を伝えようとしていたのか。
じつは、聖書が史実を伝えているわけでない、ということは、フライが最初に言ったのではなく、その百年以上前から聖書学者たちはそう言ってきた。
けれども、フライの独自性は、聖書は「霊的ヴィジョン」を語っているのであり、それは、人間の「個」と密接な関係にある、という主張にあろう。
「未成熟の、すなわち胚胎期の社会とは、個人が第一に、社会集団の有する一個の機能的要素と見なされている社会である。このような社会においては、すべからく、個人が社会的規範を逸脱せぬよう階層的な権威構造が確立される必要がある。これとは対照的に、成熟社会では、社会の各成員のなかに本物の〈個〉を育成することがその主たる目標であるとされている」(p.29)。
では、聖書はこの〈個〉をどのように語っているのか。
「いまだ生まれざる〈個〉は、「生まれながらの人」とはあまりにも違っているため、パウロはそれを別の名前で呼ばなければならなかった。新約聖書は、本当の人間とは、自然および社会の内部での胎児状態から、〈個〉という完全に人間的な世界に出現しつつある存在だと見る・・・こうして生まれ出でつつある本当の人間が、ソーマ・プネウマティコンすなわち霊的肉体である」(p.38)。
新約聖書でパウロはこう言っている。「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(コリントの信徒への手紙一15:44)。
ここで注意すべきは、フライによれば、パウロはこの表現で、「人が死んだら肉体ではなく、文字通り霊体となって復活する」ということを言おうとしているのではない。
パウロはこのような隠喩もしくは象徴言語によって、〈個〉と成熟社会の出現を語ろうとしているのだ。
しかも、その出現は、過去、現在、未来という直線的時間軸における未来というよりは、過去と未来が現在と重なる時間においてだというのである。それが霊的ヴィジョンであるというのだ。
成熟社会は歴史的事実ではない。たしかに、時間軸上に存在しない。未来においてもその可能性は低い。しかし、成熟社会は霊的ヴィジョン、過去と未来が現座に重なる時間においては、出現している。
視覚というヴィジョンでは見えないが、霊というヴィジョンによれば今ここにある。