735 「奴隷の自由」・・・ 「〈真実〉の奴隷」(武田定光、因速寺出版、2022年)

 武田さんの本は何冊か読んだが、読んでいて、とても気持ちが良い。武田さんは、因速寺の住職だが、仏教や浄土真宗が正しい、信じれば救われる、などとは言わないからだ。

 

 よく勉強しておられる。ただ者ではない。

 

 「昔、ブルトマン(神学者)が、「非神話化」ということを言いましたね。「物語」が「物語」として、そのまま信じられていた時代は終わったのだと。この「物語」を理性に耐えうるものに「非神話化」しなければならないと主張したのです」(p.53)。

 

 キリスト教神学者、あるいは、新約聖書学者であるブルトマンのことを知っている、おそらくは、読んでいるということが、武田さんの自由さと〈真実〉への探求心の深さ、その奴隷度の高さを感じさせる。

 

 「生まれた途端に死ぬいのちを手に入れるのです。いのちは、生だけで成り立っていないのですね。表面である生、つまり生まれた途端に、裏に死が張り付くのです。まあ、生と死が同時に、いのちとして誕生するのです」(p.12)。

 いのちとは生のことだとばかり思っていた。けれども、生と死のことだったのだ。

 

 「「本願成就」というのは、あらゆる苦しむ存在が救われた状態です。この救われた状態を衆生に示して、お前はすでにすくわれているのだぞと教えるのです。もう救われているのです。救われた中にいるけれども、それが実感できないのです」(p.37)。

 ぼくも、自分は救われていると思っているが、実感できていない。けれども、それでもよいのだ。

 

 なぜなら、「阿弥陀さんの「救い」は・・・人間の苦しみと一心同体になることです。そうなると、我々が救われないと感じているのも、阿弥陀さんが同じように感じて下さっている」(p.38)。

 救いが実感できない苦しみをも阿弥陀さんはわかちあってくれる。それが救いだ。

 

 「阿弥陀様がなんで「南無阿弥陀仏」という、人間が感じ取れる言葉に成られたのかなと思うとね。そこに阿弥陀さんの涙があるんですね。だって、「南無阿弥陀仏」に成ることによって、法華経信者から毛嫌いされ、外国のひとにとっては意味不明な呪文のように受け取られるんですから。道元禅師からは、蛙がケロケロ鳴いているのと同じだと批判されもしますしね。阿弥陀さんが、言葉を超えて「神秘」の世界だけに居られれば、そんな批判も受けないのです。だから、なんであえて誤解を受けるような「南無阿弥陀仏」という言葉になられたのでしょうね」(p.90)。

 これ、神さまがイエス・キリストとして地上に来られて人々と同じ苦しみを受け十字架付けられ死んだ、というキリスト教物語にも通じる。

 そう言えば、宮澤賢治の父は浄土真宗で賢治は南無妙法蓮華経だったらしい。