「100分で名著 ヘーゲル『精神現象学』 」で斎藤幸平さんが紹介していたので読んでみました。
書名に「考え抜く」とありますが、これは、「アナロジー思考」や「アンラーン」と並ぶ「哲学の基本スキル」(p.15)と、著者の川瀬さんは言います。
アナロジー思考とは「一見すると無関係に思えるものの間に構造的な類比関係(アナロジー)を見出す」(p.8)思考のことであり、アンラーンとは「自分がそれまで学んできた前提をいったん忘れて、新たにゼロから学び直すつもりで人の話を聞いたり、本を読んだりすること」(p.10)です。
では、本書の主題である「考え抜く」とはどういうことでしょうか。
「考え抜く」には「結論が出ない苦しみに辛抱強く耐える」能力(p.16)が必要です。つまり、「互いい対立する様々な考え方を精査し、安易に結論に飛びつかない態度」(p.17)が求められます。
「ヘーゲルは、生き方の問題に答えをだすためには、「自分」だけでなく、「社会」を視野に入れなければならないと考えた。ヘーゲルの考えでは、社会を視野に入れないカント倫理学のやり方では、生き方の問題に答えを出すことはできない」(p.44)。
自分と社会。自分の考え方と自分以外の人の考え方。これをどうするべきなのでしょうか。「自分はどう生きるべきかという自分自身のもともとの考えと、社会で何が受け入れられているのかということの両方を視野に入れながらが、辛抱強く考えなければならない。これが「考え抜く」ということなのである」(p.68)。
川瀬さんによれば、ヘーゲルは、「現れ」と「本質」についても同様の考えを示しています。「「現れとは別に本質は存在するのか」という問いに対して、ヘーゲルは、「存在するといえば存在するが、現れを離れては存在しない、といういかにも奥歯にものの挟まったような答えを返す・・・スッキリしないものをスッキリ説明できるかのように言うことは欺瞞であり、不誠実な態度であろう。この「スッキリしない思考」を放棄しないことこそ、考え抜くということだ」(p.166)。
ところで、ヘーゲルは「世界史とは世界精神の自己展開である」と言ったとされ、これは、「「世界精神」という、何か怪物のようなものが存在するようにすら思えてしまう」(p.232)が、川瀬さんによれば、「世界史が精神の自己把握のプロセスだ、というヘーゲルの主張は、人類は世界史を通じて、「人間とは何か?」の探求を深化・発展させ続けてきた、という主張として理解できる」ということです。
ぼくも、ヘーゲルが言ったとされる「自己展開する世界精神」は、神のようなものだ、つまり、他の人が神と呼ぶものをヘーゲルは世界精神と呼んだのだ、などと、でたらめなことを思っていました。
もうひとつ、ヘーゲルの「人は歴史に学ばない、ということを我々は歴史から学ぶ」という言葉は、人は歴史を教訓とせず、同じ悪を繰り返す、という意味にとられることが多いようですが、川瀬さんは、そうではない、と言います。
「ヘーゲルはむしろ、「人は歴史に学ぶようなことをすべきではない、なぜならそれでは現実に対処できないからだ」と積極的に述べている。ヘーゲルはここで、そもそも過去の歴史的な重要事件が起こったときと現代では状況が違うのだから、過去から教訓を安易に引き出そうとしても無理な話だ、と指摘しているのである」(p.236)。
「ヘーゲルは一貫して、現実の状況を考慮せずに一般原則から行動するということを非難しており、歴史に学ぶ態度は、これに準ずるものとして否定されているということになる」(p.237)。
つまり、現在のある問題を「ああ、何年前のあれと同じことだ。だから、こうすればよい」と安易に回答しようとせず、考え抜け、ということでしょう。