「実際にこういうことが起こった」「証拠がある」「この宗教は世界の真実を論理的に解き明かしている」といった言葉で、自分の属する宗教は真正である、と主張しようとする人がいるが、これは矛盾している。
信仰とは論理的帰結ではなく、文字通り(「文字通りに」ではない)「信じる」ことである。三角形の内角の和は180度であることは論理的に証明されるからぼくたちはそれを受け入れているが、宗教は論理、証拠といったフィジカルなもの(形而)ではなく、信仰によるものである。宗教がもし、証拠、論理を挙げるのなら、それは、目に見えるものに基づこう、それに屈服しようとしているのだ。いわば、敗北である。
「人というのは、何事かは何事かであってくれないと困るのだ。何事かが何事であるかよくわからないというのによく耐えられないのだ」(p.13)。
ぼくたちは、目に見える三角形の角度のみならず、目に見えないものであっても、それが説明できないことに耐えられない。だから、世界をも、人間をも、歴史をも、人生をも、心をも、宗教をも、神をも解き明かそうとする。けれども、その説明を求めることは、いや、説明してしまうことは、エジプトを脱出した人々が神の代わりに金の牛の像を作ったことに似ている。
「人が理解しないのは、理解しようとしてできなくて当惑するのは、或る人が何者でもない、というこのことだ。「進歩的」でも「反動的」でもなく、「〇〇主義者」でも
××論者」でもなく、実は男でも女でもなく、日本人でもなく、ひょっとしたら人間でもないのかもしれないそういう人を、世人は理解しないのだ・・・見えもせず触れもできないものすなわち精神、精神そのものとしてそこに居るような人を捉える仕方がわからないのだ」(p.26)。
ぼくたちは、人を何かに分類したがる。その人の存在そのものを見ようとしないのだ。しかも、「人」とは何か、「存在」とは何かを問うことなく、「この人はどういう存在なのか」などとやってしまう。
「人が、自分の所属や来歴を何ものかに求めるためには、自分はそれらの所属や来歴とは本来異なると知っていなければならないのではないか」(p.82)。
「自分を何者かであると思うためには、その自分は何者でもないのでなければならない。この何ものでもないところの自分、何によって形成されたのでもなく、どこに属するのでもないこの絶対主観、これをこそ私は、形而上学的な(メタフィジカル)「私」と堅持し、ここからのみ認識し、ここからのみ言葉を発しているのだ。「私」は私ではない」(p.83)。
しかし、「ぼく」はぼくでありたがる、ぼくって何?と説明したがる。
「『わからない』ということが、まざまざと『わかる』とき、それは、あやしのこの世を生きてゆく最大の力となります」(p.206)。
ぼくたちは、わかってしまわないために、わかろうとし続けるのです。わかろうとし続けないで、わかったと思う人は、わからないということがわかっていないのです。フィジカルなのです。メタではないのです。
「私は、私の魂において、まっすぐに真っ当なものへと伸びてゆこうとする力と、全てを破壊し尽くしてしまいたい非常に凶暴な衝動とが、等量に同居しているのを知っている」(p.209)。
「全てを破壊し尽くしてしまいたい」。まさにパンチです。わかっているという人にパンチを、わかったとされることがらに破壊を。しかし、それはフィジカル=偶像=暫定的なものにぼくたちがひざまずかず、それでいて、真理=メタフィジカルなもの追いかけていく道なのです。わかったと思わずに、追いついた、つかんだと思わずに、どこまでも、追いかけるに過ぎない、謙虚な道なのです。