宗教は、今、つまり、インターネットと消費の時代において、どういう顔をしているのだろうか。それを探るのに、本書は有意義な一冊であろう。
ところで、新教出版社の出す「福音と世界」という月刊誌は、近年、キリスト教界以外の読者を増やしていると聞いた。たしかに、キリスト教の外にも通じるテーマ、思考が毎号取り上げられている。
この本も、キリスト教徒だけでなく、宗教、社会、ポストモダン(近代後の時代と見なされる現代)を探求する人びとに向けられた内容と言えよう。
それも手伝ってか、本文は、ぼくにとっては読みやすいものではなかった。字も小さいので老眼にはきびしい。訳文も、専門の学生、研究者向けであって、一般読者には難しいものではなかろうか。
けれども、巻末の訳者解説は、うってかわって、とてもわかりやすい。まずここを読み、本文を読み、もういちどここを読むと、理解が深まると思う。
「私はこれまでの議論のなかで、権威、継続性、コミュニティ、全体性、目的がある典礼の世界とは対照的に、サイバースペースが提供しているのは、アナーキーさ、瞬間、個人主義、断片化、筋書きをもたないものだと主張した」(p.155)。
ポストモダンである現代の特徴は、権威ではなく「アナーキーさ」(つまり君臨して統治する人や組織がない)、継続性ではなく「瞬間」、コミュニティではなく「個人主義」、全体性ではなく「断片化」、目的がある典礼ではなく「筋書きのなさ」なのだ。
では、宗教はどうなるのか。たしかに、たとえば、ヨーロッパのようにキリスト教会が国家や社会制度と重なって、権威、継続性、コミュニティ、全体性、目的がある典礼を維持した世界は衰退している。
しかし、アナーキーさ、瞬間、個人主義、断片化、非典礼として、宗教、あるいは、人間の信仰心は生きている。生き残っているのではなく、むしろ、成長している、と著者は指摘する。
「消費過程には、こうした断片を各自の好みに応じて再構成(カスタム)しながら、不断に変化するパターンに仕立てるということが含意されている。この種の過程は宗教的アイデンティティの構築においても成立している」(p.170)。
「信仰主体は、かつての宗教的制度が関心を寄せる問題に対して興味=利益(インテレスト)がないわけではないが・・・・満足を得たいとなると従来の制度はお呼びでないのである」(p.171)。
大きな宗教組織に任せるのではなく、自分で選択する人びとが増えている。この選択は消費(買い物、ショッピング)にも似ている。
「宗教活動が個人の選択や任意の対象となることで宗教的アイデンティティが再構築され、信条と実践の寄せ集め(プリコラージュ)を生み出しており」(p.172)。
ぼくのキリスト教についての考え(信仰と呼ぶこともできるかもしれない)は、ルター派、近代聖書学、解放の神学、若松英輔など、それぞれの断片を30年かけて寄せ集めたものだが、これもポストモダン的なのだろうか。
個人の信仰心、宗教性はこれで良いと思うが、教会という場に集うのであれば、個別なものばかりでなく、共通するものも考えてよいだろう。
しかし、それは、かつてのような狭い教義、聖書理解、信仰的確信に縛られるべきではない。けれども、各自のプリコラージュが生き続けることのできる枠組みはあってもよいのではないか。
とりあえずは、何らかの意味での唯一神への何らかの信仰、信頼、聖書を何らかの意味で信仰の資源とすること、何らかの意味でイエスを神と自分との仲保者とすること、あたりだろうか。何らかの、というところが、ポストモダン的ではなかろうか。