「搾取と抑圧の現実を生きる人々にとって、『進化する神』や『全宇宙の根源』といった神の概念がどれほど解放的になるのかはまだまだ不透明である」(p.360)。栗林先生はプロセス神学をこのように評価する。
「ポストモダンの神学論議の落とし穴は、日本も含めた中央世界のキリスト教が、グローバルな抑圧に背を向けて、内向きの議論に専念しがちなことにある。価値の相対化だの公開性だの(リベラル派神学の場合)、信仰共同体の伝統だのテキスト内的読解だの(保守的神学の場合)と神学者がいくら議論しても、世界的な貧困、飢餓、差別に抗する公共倫理、社会構造が孕む悪に無関心なままならば、それは結局のところ周縁の収奪を容認して抑圧に手を貸す旧来の宗教的イデオロギーに他ならないだろう」(p.221)。
栗林先生はどこまでも解放の神学者だ。
この本を読めば、たしかに、アメリカの神学についての知的好奇心はかなり満足されるだろう。けれども、栗林先生は、それをポストモダン的に、つまりは、言ってしまえばたんなる知的遊戯として、本書に書き連ねたのではない。抑圧された人間の解放のための資源に、神学がなりうるかどうかが問題なのだ。
第1章では、フェミニスト神学から(アフリカにルーツを持つ女性による)ウーマニスト神学、(ラテンアメリカにルーツを持つ女性による)ムヘリスタ神学が紹介、批評される。
第2章では、アジア系神学が紹介され、小山晃佑、宋泉盛の問題点が指摘され、それを乗り越える神学として、民衆神学が導入される。
第3章では、ポストモダン神学が紹介されるが、それへの鋭い批判は、すでに引用したとおりである。
第4章ではポストリベラル神学(リベラル神学への反動)が概観され、第5章では、ポスト・ポストリベラル神学とでも言うべき、リベラル再構築を目指す修正神学に読者は誘われる。
第6章はプロセス神学に割かれるが、その代表的神学者オグデンが解放主義者へと転じて行ったことが述べられている。
つまり、栗林先生は、さまざまなアメリカ神学者の論を知りながらも、やはり、神学は人間解放に資するべきであるという考えから、諸神学を批評しているのである。
また、解放の神学あるいはリベラル神学、それへの反動としての保守神学、そして、また、解放の神学・リベラル神学という足跡が現代アメリカ神学にあることを本書はあきらかにしている。