読み終わらない本とはどんな本なのでしょうか。わたしたちは世界をすっかり理解してしまうことなどできません。人間とは、人生とは何か、知り尽くすこともできません。神や真理は、つかんだと思ったら、神でも真理でもありません。つまり、世界も人間も人生も、神も真理も、読み終わることはないのです。
本書では、読むことだけでなく、書くことも述べられています。
「大切なのは、物事を自分だけのものにすることではなく、誰かのもとに届けることかもしれないんだ」(p.10)。
読むばかりでなく、書きます。そして、書くこともまた終わらないのではないでしょうか。「読み終わらない本」は「書き終わらない本」でもあります。
わたしたちが自分のものにし誰かに届ける「物事」とはどんなことでしょうか。
「読むということは・・・あらすじの奥にあるものをしっかりと見定めることだ・・・本を読むぼくたちは、文字の奥に何かを感じなくてはならない・・・目に見える言葉の奥に秘められた意味」(p.19)。
「物事」は「あらすじ」や「文字」や「目に見える言葉」の「奥に秘められた意味」なのです。けれども、その意味はこれこれこういうことだと書いてしまうなら、それは、あらすじや文字、目に見える言葉に戻ってしまうでしょう。だから、書き終わらないし、読み終わらないのではないでしょうか。
「文学は、言葉によって言葉にならないものを表現しようとする芸術だ」(p.20)。
言葉にならないもの、言葉にならない〈真実〉を言葉で表現しようとするから、書き終えることはできないし、読み終えることもできないのです。この〈真実〉という表記で指そうとするものさえ、真実という表現で書き終える、読み終えるものではありません。
「こころの奥に潜んでいるものを、ぼくたちが、かいま見ようとするとき、もっとも確実な営みは「書く」ことなんだ」(p.24)。
書くという営みによって、こころの奥に潜んでいるものが言い尽くされるのではありません。かいま見られるだけです。だから、書き終わらないし、読み終えないのです。
けれども、そもそも、書き終えたり、読み終えたりしなければならないのでしょうか。わたしたちは、終えること、達成することに慣れ過ぎていないでしょうか。たしかに、やりたくない仕事、つらい仕事は、終えてしまいたいものです。
けれども、楽しいこと、うれしいこと、喜ばしいことは終えたくはありません。〈真理〉を求める列車の窓からはいろいろな風景が見えるばかりでなく、レールと車輪が奏でるリズムが心地よいですから、この旅は終えたくはないのです。
「書く人に託されているのは、誰も書かないような言葉を書き記すことだけではない。多くの人が見過ごして顧みない日常のなかに、意味の宝珠を見つけることでもある」
(p.38)。
わたしは牧師という仕事をしていて、毎週日曜日の礼拝では20分話をします。それ以外にも、聖書を横に人びとと話します。牧師の仕事は、聖書をレンズに、わたしたちの日常に意味の宝珠を見出すことではないでしょうか。
なぜ、本は読み終わらないのでしょうか。
「ほんとうに「読む」ということは、文字を扉にして、作者が書き得なかったことにふれようとすることだから、情報は道路の標識のようなもので、真の目的はその先にある。それを受けとめるためには、「あたま」だけでなく、同時に「こころ」も動いていなくてはならない。このときぼくたちにとって読書は一つの経験になる」(p.82)。
ああ、その通りですね。わたしは書くとき、書きたいことを書き尽くすことはできません。それと同じように、わたしの読んでいる著者も、書き終えていないのですね。だから、わたしも読み終えないのですね。
けれども、これは不幸でなく、しあわせです。神や〈真理〉は掴んだと思った瞬間、その正反対のものになってしまうのですから。
「人は「分かった」と感じたことをそれ以上に追及することはない。叔父さんはコペル君に何かを「分かる」ことだけでなく、「分からないまま」でいることの大切さを伝えようとしている」(p.96)。
「分かる」とは分割してしまうことです。〈真理〉を「分か」れば、真理は分割されてしまいます。「分からないまま」とは分割されていない全体です。全体は真理の異名ではないでしょうか。
「眼と眼を合わせて、抱きあえるような距離で会うのではない。言葉という細い糸を頼りにしながら、暗いところで握るべき手を探すように「出会う」、これが「読む」ことの真の姿だ、と小林秀雄は考えている」(p.193)。
小林秀雄は「読書について」の中で「顔は定かにはわからぬが、手はしっかりと握った」と表現しています。
その本の手は握ったが顔は分からないから読み続けるというのです。その本の顔は分からないが手は握れるから読み続けるというのです。