著者によれば「釈迦の仏教」は「この世界の因果則は厳然たるものであって変えることはできない。だから、特別な努力をして自分の心のあり方のほうを変えよう。それによって生きる苦しみに打ち勝っていこう」(p.72)というものでした。
けれども、自分の力でそのようにできない人びともいます。しかし、「宗教の目的は様々な状況で苦しんでいる人々に安心を与える」(p.82)ことにあるので、自分を変えたり、苦しみに自分で打ち勝ったりできない人びとが救われる教えも求められます。般若心経はそのような人びとのために作られた、と著者は言います。
色即是空つまりすべてのものは空であることを教える般若心経を唱えることで救われると般若心経自らが説いているのです。
釈迦の仏教はある意味世界を合理的に見ていて、それに打ち勝つ道を合理的に求めた結果が厳しい修行なのですが、般若心経を唱えると救われるというのは説明不可能で非合理なことです。合理に対して言い換えれば、神秘ということになります。
しかし、著者は、合理か神秘か、自力か他力かという二者択一を言っているのではありません。合理も神秘も宗教資源として生かすべきだということでしょう。合理的な救いの道を歩めない人には神秘の道がありますし、「合理的な教えを土台として生きていくとき、神秘の力がその味方になってくれることも十分ありえる」「(自分の決断の)保証者として、(他力的な)神秘の力を拠り所にする」(p.100)と言うのです。