浄土真宗のある住職が書く文章が深くて、何冊か読んできたが、その中で、何度か、まどみちおさんの名前が出てきた。「ぞうさん、ぞうさん、おはなが ながいのね」の、まどさんだ。
その理由は、谷川俊太郎さんの本書のあとがきにうかがえる。
「詩を書くとは言葉で、言葉に毒される以前の宇宙につながろうとする、初めから矛盾に満ちた力業だというのが、まどさんの詩作ではないか」(p.343)。
「言葉以前の〈存在〉を捉えようとするまどさん」(p.347)。
住職も、まどさんも、言葉以前の「宇宙」あるいは「存在」(そのもの)を目指すのだ。
まどさん自身はこう言っている。
小学校時代「五感に映るすべての物事が、なんとも新鮮で、神秘的で、そして寂しくてならず、子供のくせによく胸が切なくなりました」(p.15)。
「蝉の声のあの神秘さや寂しさ・・私たちこの世の生き物が自分で生きているのではなくて、なにかによって生かされているのだという紛れもない事実からの重圧・・・その重圧の、神々しいような、有難いような、悲しいような」(p.16)。
そらは、わたしたちへの重圧でしょうか、それとも、開放でしょうか。あるいは、開放は重圧でしょうか。窓から見えるものは空でしょうか。
「樹は空へ向いている・・・枝先は空に溶けてる」(p.23)。
「あたまの うえには/なんにも ないよ/なんにも ないけど/おそらが あるよ」(p.62)
「めだかの あくび/かえるの あくび/あくびの あぶくが/ぽろん ぽろん ぽろんと/はるの そらへ のぼる」(p.68)。
「なにかによって生かされているのだという紛れもない事実」は「重圧」なのだろうか。生かされていることは「神々しいような、有難いような」、しかし、「悲しいような」なのだろうか。
「このういういしさは/このつつましさは/天からのもの 地からのもの/はるかな はるかな はるかな…/なのに この草のもの/におうばかりに いまここに/ああ 天にも地にも かんけいない/あたしの ちゃちな ためいきよ」(p124)。
「さみしい みちを/いぬが あるいている/ついてくる かげぼうしにも/それを くださった おひさまにも/きがつかないで あるいている」(p.156)。
「うたは もえて もえて/こずえへのぼり くもへのぼり/くも つきぬけて/天へと のぼり/たいようの てに すくわれて/そのゆびに あそんで ちりこぼれ」(p.171)。
そういえば、まどのむこうには空がひろがっているけど、まどのこちらには影が差すよね。けれども、月影とは月の光のことだよね。そうすると、神々しいは悲しいでもあるよね。