「アスランはときに風聞であり、その援助はきまぐれであり・・・(中略)・・・むしろ、彼の存在の放つなにかが・・・(中略)・・・道理や宗教的規範を超えた深い聖性を感じさせる」(p.341)と解説者は記しています。
けれども、それは、初め、一番年下のルーシーにしか感じられませんでした。
「わたしにはずっと見えてるんだけど」ルーシーが言った。「アスランは、まっすぐこっちを見てるわ」「じゃ、なんでぼくには見えないの?」「見えないかもしれない、ってアスランは言ってたわ」(p.220)。
感じられない者はどうしたらよいのでしょうか。感じている者のあとをついていくのです。
「みんなは、ルーシーを頼りについていくしかなかった。アスランは、目に見えないだけでなく、音もたてなかったからだ。ネコのように柔らかな肉球は、草を踏んでも足音をたてなかった・・・(中略)・・・ルーシーは一心にアスランを見つめていたし、ルーシー以外の者たちはルーシーの姿を見つめていたからだ」(p.225)。
そうしているうちに、感じられなかった者も感じ始めるのです。
「見て! ぼくらの前を下りていく影がある。あれ、何だ?」「アスランの影よ」(p.227)。
ブッダ、預言者、イエス。世界の泉にある深い聖性を感じた人びとは、それを他の人びとに示していきます。あるいは、他の人びとは、この人びとを通して、それを感じます。あるいは、予感します。
このさい、感じ方の深さは問題ではありません。まざまざと感じようと、なんとなくそう思おうと、あるいは、感じることに憧れようと、聖性から呼びかけを受けていることには違いがないのです。ただ、ルーシーは最初にそれに気が付いたのです。
ルーシーは、ある人にとっては、詩人であったり、作家であったり、批評家であったりすることでしょう。世界の源の聖性をかいま見せてくれる人はひとりだけではありません。