櫻井義秀さん、鈴木エイトさん、横道誠さん、遠藤まめたさんら、この問題のリソースパーソンらへの、編者の荻上チキさんのインタヴュー、編者が所長を務める「社会調査支援機構チキラボ」のアンケート調査、分析、そこに寄せられた当事者の声などで、本書は構成されています。
難しい言葉遣いはなく、とても読みやすく、さらに、この問題についての重要な記述がいくつもみられます。
「旧統一教会と保守政治家は、とりわけ「家族と性」に関する理念の合致によって、結託と信頼を強めていた」(p.7、荻上)
選挙だけでなく、「家族と性」についての保守性が、両者の接点なのですね。そして、この指摘は、本書の特色にもつながっていると思われます。
編者は、また、編者の姿勢をこのように述べています。「宗教全般に対するレッテル貼りなどに反対の立場をとること。信仰の自由を社会として認めること。そのうえで、差別的な教義に対しては異論を述べること。反社会的な振る舞いを行う団体に対して、政治的な対処を求めること。これらはいずれも、同時に目指すことができるはずだ」(p.19)。
超越存在(神仏)を信じる自由は認める。しかし、「差別的な教義」や「反社会的な振る舞い」は認めない。この場合の「反社会的」とは「差別的」であり、鈴木エイトの言葉で言うならば「金銭被害」「意思決定の侵害」「信仰の自由がない」「人権侵害」(p.125)ということになるでしょう。
「人間関係のほうが先行して信頼関係ができてしまったあとで情報を流されると、多くの人はそのまま受け入れちゃうんですよ」(p.30、櫻井)
教育の現場やカルトでない宗教でも、信頼関係を築いてからでないと、相手は情報を受け取らないし、その情報を大事だと思わないかもしれません。教育や宗教の現場にいる人は、信頼関係を築きつつも、それを悪用し、相手に何かを押し付けないように、つねに、自分を点検する必要があるのではないでしょうか。
「カルト視される教団というのは、これはこうで答えはひとつ!という考え方なのです。それに対して、世のなかというのは決められたものではなくて、非常にオープンで、自分で決めていいものなんだということを理解してもらえれば、その人は自分の足で踏み出すことができるんです」(p.37、櫻井)。
「答えはひとつ!」はカルト教団だけでなく、日本社会、学校教育がやってきたことでもあるのではないでしょうか。「世のなか」も「答えはひとつ!」にかなり染まっていて、「男はこうあらねばならない」などというコピーに満ちています。カルト教団は「世のなか」の鏡でもあるのではないでしょうか。
「洗礼を受ければキリスト教系の難関大学に牧師推薦枠で入れると言われた」(p.112、当事者)。
これは、聞き手には好ましい情報を不正確に伝えることで、牧師が信徒をコントロールしているのかもしれません。ぼくも牧師で、推薦もしたことありますが、洗礼を受けているだけでなく、学校の成績も要求されます。一定以上の成績がなければ、洗礼を受けていても、推薦を受けることはできません。また、洗礼を受けていて、成績条件をクリアしていても、不合格になる場合もあります。
「牧師が性的マイノリティへ否定的な発言をした」(p.118、当事者)。これは当事者が抱いた「差別的な教義への疑問」の一例として挙げられていました。しかし、当事者は、この発言に、疑問だけでなく、抑圧、脅迫を感じた可能性も高いと思われます。
「安易に幕引きを図ろうとしている。過去のいろんな、もっと濃度の濃い政治家、引退した政治家、亡くなった政治家、そういうところまでは踏み込もうとしていないものだと思います」(p.123、鈴木)。
たしかに、20世紀半ばに遡って、日本の政権が旧統一教会とどのように関わってきたか、どのような癒着や犯罪行為があったか、あきらかにされなければならないと思います。
(旧統一教会は)「ひとつは純潔教育が重要であるとして、性教育に対してバッシングを行ってきました。もうひとつは、LGBTや同性愛の問題について、共産主義によるものだという考え方を持っていて、それが家庭を崩壊させるんだと主張しています」(p.210、遠藤)。
「キリスト教の保守派の方たちを中心として同性愛者よりも人口が少ない、トランスジェンダーに集中的にバッシングをしていくという状況があります。日本にもそれが翻訳されて入ってきている。(旧統一教会系のメディアが、こういったトランス差別の言論を供給する大きなプレーヤーのひとつにもなっているのでしょうか?)そのとおりです」(p.222、遠藤)。
セクシュアルマイノリティ、そして、その中でのさらなるマイノリティであるトランスジェンダーへの言及は、本書の良質な特徴のひとつではないかと思います。
というのは、ぼくは本書に続けて「徹底討論、問われる宗教と“カルト”」(NHK出版新書)を読みました。これは、島薗進、釈徹宗、若松英輔、桜井義秀、川島堅二、小原克博、各氏の討論ですが、こちらでは、セクシュアルマイノリティ差別とカルトの問題はまったく触れられていなかったからです。避けている、というよりは、テーマの立ち方の違いによると思われますが。
本書にもどって・・・「宗教2世は、半分はカルト問題ですけど、半分は親子問題という側面があります。教団と親から二重にトラウマを負っていて、心が壊れかけている印象を与える人は多いです」(p.258、横道)。
ぼくと父、ぼくと子どもの関係をふりかえっても、押しつけ、抑圧、トラウマと無縁ではありません。教育、宗教一般だけでなく、家庭、親子も、カルト的要素を持っていることを批判的に自覚すべきではないでしょうか。
「さらに本書は、信仰を持つ親や、宗教関係者にも届けたい。あなたの「教え」が、誰かを踏みつけ、苦しめることになっていやしないか、どうか見つめ直してほしい」(p.337、荻上)。
たしかに、宗教(さらには、教育、家庭、親子、そして、職場の上下関係)には、「誰かを踏みつけ、苦しめる」要素があると思います。それを、しっかりと認め、深く反省しなければなりません。
けれども、宗教や教育、あるいは、人間関係の思想には、「踏みつけてはならない」「苦しめてはならない」という要素もあるのではないでしょうか。たとえば、キリスト教の聖書の中にも、残念ながら人を抑圧する言葉もあるのですが、それを克服し、人を解放する言葉もあるのです。
人間関係にあるカルト的要素を自己批判し、カルトとは反対の、人間を自由にし、解放し、生き生きとさせる要素によって、乗り越えていかなければならないと思います。