659   「牧師が住職から学ぶこと」 ・・・ 「〈真実〉のデッサン」(武田定光、2021年、因速寺出版)

 浄土真宗を学び、僧侶になる直前だった、という方が、いぜんぼくの働いていた教会に通ってくださり、礼拝の説教やキリスト教の読書会などに理解を示してくださり、ひょっとしたら、この方は、キリスト教徒になってくれるのではないかと妄想したことがありましたが、武田定光さんの本をいくつか読んで、それが、まさに妄想であったことが明らかになりました。

 

 武田さんの著書は、この方に紹介していただいたのですが、内容がすごいです。ぼくなどより、現代思想も、哲学も、宗教思想も広く深く学んでおられ、よく自分のものにしておられます。この方は武田さんと同門で武田さんに学んでおられるのですから、キリスト教徒などになる必要はまったくないと知りました。

 

 さてこの本ですが・・・

 

 「言葉が生まれるためには泉のようなものがあって、そこから清水が染み出てくるように言葉が生れてくる。その泉は、自分が作為的に生み出すことはできない。いつもそこには清水が滞留していて、その滞留が満杯になると染み出してくるようなものだ」

 

 ぼくは毎週日曜日20分くらいの話をせねばならず、準備段階で、その原稿を書くのですが、清水が染み出てこないのに、無理やり字数を増やすようなことをしてしまっています。

 

 「厳密にみると、教えの発信対象は、ひとではないのだ。阿弥陀さんに向かって発信されているだけだ。その阿弥陀さんに向かって発信した言葉を「拾って喜ぶ」ひとがいるだけだ・・・坊さんの説法は〈裏声〉(OFFの声)でしなければならない。それも阿弥陀さんだけに向かって。もし聴衆を対象にしたとき、それは汚れる」(p.70)。

 

 ああ、ぼくの日曜日の話は汚れまくっています。聴衆に聞かせよう、よい話と思われる話をしようとしていますから。

 

 「あるかたから梨をいただいた。坊主は・・・何でもいただかねばならない・・・いただいてみて気付いたのだが、「いただきもの」でないものは一つもないという、厳粛な事実。身体、環境、境遇を引っくるめた「宿業」のすべてが「いただきもの」だった。「いただきもの」だと考えている考えも、「いただきもの」だった」(p.84)。

 

 牧師もいただきものを良くしますが、要らない、欲しくない、めいわくだ、と思うものもあります。でも、そういういただきものも、すべては自分の持ち物でも作った物でもなく、いただきものだということを教えてくれるいただきものなのでした。

 

 「話の内容は、いつもと同じようなことなんだが、「同じようなこと」であっても、「同じ」ではないという醍醐味がある。これが仏法の話の面白いところだ」(p.147)。

 

 牧師の説教もそうだと良いです。いっそのこと、落語や音楽のように、同じ説教を何度も上演してもよいのではないでしょうか。もちろん、それは、名作説教が望まれることでしょうが。このクリスマスは、クリスマス説教第5番、このイースターは、イースター説教第7番とか、いうようにならないでしょうか。まじめな話、クリスマス、イースターペンテコステ、洗礼、葬儀、有名聖書箇所などの説教には、そういう定番があってもよいのではないでしょうか。

 

 「「仏さん」とか「阿弥陀さん」は仮説(けせつ)されたものである」(p.154)。「阿弥陀さんは〈真実〉の別名であり、人格神のようなものをイメージしてはいない」(p.169)。

 

 ああ、この本は阿弥陀さんのデッサンだったのですね。キリストを仮説であるとか、〈真実〉の別名とか、言うことのできるキリスト者はほとんどいないでしょうね。でも、ロゴス・キリスト論はそれに少しだけ近いかも知れません。

 

 実体として考え語るから争いが起こる、仮説だと考えたら、そうはならない、少なくとも、どちらがホンモノ争い、からは自由になれるかも知れません。そして、仮説という考えを徹底するところに〈真実〉があるという逆説があるかもしれません。

 

 「浄土教が、真理の仮説として「主体」をイメージ的に語れば「阿弥陀仏」になるし、「世界」をイメージ的に語れば、「浄土」になるようなものだろう。二つは同じものの違ったイメージ的表現なのだ」(p.156)。

 

 これを借用したら、神と神の国、キリストと神の国、も同じものの違ったイメージ的表現という考えも出てきそうです。

 

 「私も、ひとの顔色ばかりをうかがっている坊さんよりも、阿弥陀さんのことだけを考えている坊さんの方が好きだ」(p.180)。

 

 ぼくは、ひとの顔色ばかりをうかがっています。そのわりには、人に好かれていない気がします。いや、そういう気がするから、顔色をうかがうのでしょうか。神のことだけを考える牧師さんになるべきでしょうか。

 

 「親鸞は「断」と言って、人間が死後に生まれるであろう場所の予想やイメージを断絶するが、その一方で、真逆とも思えるファンタジーを豊かに遊んでいる。あなたが先に浄土に往ったら待っていて下さいよとか、自分が浄土で必ずあなたを待っていますよ、などと手紙に書いている。なぜ真逆とも思えるファンタジーと原理が共存できるのか」(p.189)。

 

 「原理は、真なるものを立て、偽なるものを排除する。冷徹な刃物のようだ。しかし、ファンタジーは曖昧を許す・・・原理は地による分析分割(否定)だが、ファンタジーは包摂統合(肯定)だ。この矛盾した両性が不可欠なのだ」(p.189)。

 

 ああ、救われます。嘘や妥協や追従ではなく、包括統合、肯定だったのですね。ぼくもそうしています。

 

 

https://insokuji.com/issue/