著者は自身を「どの教会にも属さないフリー牧師」と言っています。聖書の読み方もフリーなこの著者は、非暴の普及促進活動のなかで、この本に現れるユニークな精神を育んできたのでしょう。
「私が考える限り、「非暴力」とは、以下のようなあらゆる「諸力」の組み合わせである。「肯定力」「包容力」「支持力」「和解力」・・・」(p.38)。
ならば、否定、排除、非支持、非和解は、暴力でありましょう。わたしたちの中にも、わたしたちの相手の中にも、人びとの中にも、この暴力がはびこっています。
「非暴力の基礎――。それはどうしたら「力」を出せるかではなく、どうしたら「力」を抜くことができるかである。「固い信念」とか「固い意志」とかが倫理的に高い価値と思われてきたが、これこそ暴力的で危険を孕むものである」(p.39)。
たしかに「固い信念」「固い意志」は、相手を受けいれず、むしろ追い出します。それは、じつは、信念がぶれない高徳なことなどではなく、自分の思うようにしてしまう貧困な精神にすぎません。
「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイ7:3)。この聖書の言葉を「人の欠点にはすぐ気づくのに、自分の欠点にはまるで気づかない。人の欠点は非難するのに、自分の欠点には甘い」と説く牧師は多いでしょう。
著者の解釈はさらに厳しいかもしれません。「自分の目にある「丸太」を取り除けと言われるとき、「丸太」とは自分の価値観であり、正義感である。自分がそれまで営々と築き、守り通してきた貴重な宝である。あるいは自分の信仰かもしれない」(p.50)。
その人にとっての価値観、正義感、宝、信仰は、じつは、目に入った埃に過ぎない、他者を見えなくする夾雑物に過ぎないと、著者は言っているのではないでしょうか。
「誰にでも、「あなたは重要で大切な、欠くべからざる存在だ」と感じさせること。相手にそう感じさせるために必要な、あたたかい態度と言葉を身につけるトレーニング・・・トラブルメーカーではなくピースメーカーになるための練習」(p.60)。
わたしがこれまで出会った何人かに「あなたには価値がない。いない方がよい」と感じさせるような言動をとってきたことは否定できません。わたしがそうされたこともあります。そうでなくなるためには、トレーニング、練習が必要なのです。「そうしなければならない」と思う(そして忘れたり、実行できなかったりする)ことよりも、それを習慣化することが大切なのです。
旧約聖書の創世記で、イサクは若いころ父アブラハムにあやうく殺されそうになります。神がアブラハムにイサクを自分にささげるように命じたからです。けれども、イサクはギリギリのところで助かりました。
この聖書個所は難解で知られるのですが、著者はこのように述べています。「イサクはこの得がたい体験を通じて、希望が絶たれる事態に直面したとしても、「主が共にいてくださるから大丈夫」と確信できるようになったと、わたしは解釈します」(p.154)。
「その後、イサクは追われ続けて・・・嫌われ、ねたまれ、追い立てられて、さまよい歩いたイサクには常に一貫した姿勢がありました。それはつとめて争うことを避け、奪うものには与え、追う者から身をかくすということでした・・・そんな彼のもとに夜、神の声が届きました。〈恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる〉」
イサクはこのような神の声をこのとき初めて聞いたのではなく、父に殺されそうになったがぎりぎりのところで助かったあの時から、「共にいる」という神を確信するようになった、と著者は言うのです。そして、神が共にいるという確信が、暴力による解決策を回避させるのでしょうか。
学者や教会に属する牧師や固い信念を持つキリスト者には発想しにくいがとても有意義な聖書の読み方に触れることができました。