655  「ようわからん神」・・・「ヤバい神: 不都合な記事による旧約聖書入門」(トーマス・レーマー、新教出版社、2022年)

 「ヤバい」とはどういう意味なのか。本書の原題はフランス語で DIEU OBSCUR である。ぼくはフランス語は知らないが、DIEU は「神」で、OBSCURは「暗い、薄暗い、 分かりにくい、難解な、曖昧(あいまい)な,漠然とした,おぼろげな」というような意味のようだ。

 

 本書では、神が残忍、好戦的、復讐者、暴力的と思われるような聖書箇所についての著者の解釈が述べられている。そのような聖書箇所は、神を分かりにくく、難解で、曖昧にする、と言えなくはないだろう。すると、原題の意味は、「理解しにくい神」というほどの意味ではなかろうか。

 

 他方、「ヤバい」とは、どういう意味だろう。いくつかの聖書箇所からの印象のように、神が暴力的だったら、「問題だ」ということだろうか。神の立場があぶない、人間から神として信じてもらえない、ということだろうか。

 

 「ヤバい」とカタカナ交じりになっていることを見ると、若者の用法に準じているのだろうか。若者は「やばい」を「おいしい、すごい、かっこいい、びっくり、すてき、まずい、

残念、かっこ悪い、都合が悪い、気持ちが悪い、似合っていない」といった意味で使うようだ。

 

 旧約聖書ヨシュア記にはこのような個所がある。「彼らがイスラエルの前から逃れ・・・・主は天から大きな石を降らせた‥‥多くの者が死んだ。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人びとが剣で殺した者よりも多かった」(10:11)。

 

 この個所について、本書の筆者はこうコメントしている。「アッシリアをモデルに用いて征服を描くことで、ヨシュア記1~12章の書き手たちはヤハウェの好戦的なイメージを強調した。それは、イスラエルの敵すべてを拒絶することをためらわない神のイメージである。そのような強調は残念なことであると言わねばならない。だが、このような神のイメージは記された時の歴史的文脈に即して理解する必要がある‥‥ヨシヤ王時代の書き手が目的としていたのは、ヤハウェアッシリアの守護神‥‥よりも強いということを示すことであった。他の人々にはカナンを占領する権利がないとヨシュア記が主張するとき、この主張は同時に、そして、専ら、アッシリア人に向けられる」(p.133)。

 

 つまり、ヨシュア記にはヤハウェがカナン占領のために先住民を殺すという記事があるが、それは、神が実際にそうしたということではなく、自分たちを抑圧したアッシリアへの抵抗心を示しているというのである。

 

 しかし、著者はこれにはデメリットがあったと述べる。「このメッセージを展開するには、ヤハウェを‥‥残忍で好戦的な神として描くという代償が伴った」(p.134)。

 

 そして、ヨシュア記のこのような個所に思想的に反対する個所が旧約聖書にはあると著者は言う。「歴代誌が行った改訂において、〔カナンの〕地への軍事的な征服に関する記述はすべて削除されている!‥‥歴代誌上・下が示しているのは土着のイスラエルである。彼らは元々その土地に住んでおり、従ってカナンにどのように定住したのかを説明するために戦争神を持ち出す必要はない。同様に、歴代誌家たちは列王記に出てくる戦争のイメージを変容させている。王たちは典礼の指導者になり、戦争は典礼で行われる行進になる」(p.138)。

 

 「好戦的な神を描いた個所は、明らかにより暴力的でないかたちへと捕囚期に改訂された。このような改訂作業は、聖書に基づいて人間が戦争と征服を是認することを不可能にしたはずである」(p.141)。

 

 「ユダヤ教にとって聖書の中心をなすトーラーには、ヨシュア記とその暴力的な征服物語は意図的に含まれていないのだ」(同)。

 

 「ユダヤ教は五書を「オープンエンド」にし、征服物語を二次的なに格下げすることを選んだのである」(p.142)。

 

 「族長物語には近隣の民に対面した際に平穏な、平和主義的とさえ言えるアプローチが見られる」(p.146)。

 

 これらを読むと、旧約聖書の好戦的な神観を隠蔽しているように思えるかもしれないが、著者はこのようにも記している。「不幸なことに、実際にはそのようにはならなかった。ヨシュア記はアメリカ先住民の根絶を、南アメリカでの白人入植者の優位性を、そしてその他の不正義を正当化するために用いられた。聖書テクストのこのような誤用に対する唯一の武器は、テクストそれ自体の真剣な探求である」(p.141)。

 

 つまり、聖書の中には、神を好戦的に描く箇所もあるが、それを克服しようとする個所もある、けれども、神を好戦的に描いた個所が現代にいたるまで侵略の正当化にたびたび用いられている、ということだろう。

 

 さて、もう一度、「ヤバい」神に込められた意味に戻ってみよう。いくつかの聖書箇所を見ると、聖書の神は「不都合」にも思えるが、全体を通して見ると、「すごい、かっこいい」ようにも思えるということだろうか。いや、OBSCUR には、そこまでの意味はないかな。しかし、「理解しがたい神」は、「不都合に見える神」でも、あるいは、「じつは人間の理解を超えたすばらしい神」でもあるかもしれない。これも、また、ぼくには、OBSCURだ。

 

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