王だけではなく、「聖書では、人類すべてが「目に見えない神の、目に見える代理人として、愛と正義をもって世界を治めるために造られた」と主張しており」(p.12)。
これは、聖書のどの個所に基づいた見解だと思いますか。創世記1章27節です。「神は人を自分のかたちに創造された」。「かたち」は「像」とも訳され、人が「神の像」として創造されたとはどういう意味か、キリスト教の歴史上考えられてきたようですが、これは魅力的な解釈のひとつだと思います。
旧約聖書には、アム・ハーアーレツという言葉が出てきて、わたしはその意味を、「地の民」と覚えていましたが、本書では、それが詳しく書かれていて、理解を深められました。
アム・ハーアーレツは、時代によって意味が変わっていったのです。イスラエルの最初の王はサウルですが、それ以前の時代においては、アム・ハーアーレツは地元民、先住民を指したそうです。王が登場して王国時代になってからは、この語は、「ユダ国内で特別な力をもった集団を指し、事実、王や高官、祭司、裁判官などと肩を並べる権力者の一部に数えら」(p.59)れたそうです。そして、イエスの時代には、無学であるとか不敬虔であるとか見なされた人びとを指したようですが、イエスはこの民と近かったのかもしれません。この項目の執筆者は池田裕さんです。
「エルサレムの娘たちよ 私は黒くて愛らしい」(聖書協会共同訳)。「エルサレムのおとめたちよ わたしは黒いけれども愛らしい」(新共同訳)。
新共同訳では、「黒い」ことがマイナスのこととして考えられていて、そのようなマイナス要素があるにもかかわらず、愛らしい、という意味にとれます。「子どもなのに、力がある」みたいに。
これに対して、聖書協会共同訳の「黒い」はマイナスのこととは見なされておらず、むしそ、「愛らしい」と並列されるプラスの要素のようにも思われます。
「「黒いけれども」という訳文には「愛らしい/美しいのは白い肌であって、黒い肌ではない」といった、社会的につくられてきた差別感覚が暗黙の前提になっています。聖書協会共同訳はそれに気づいたのです」(p.102、月本昭男)。すばらしい気づき、指摘だと思います。
これを読んで思い出したことがありました。新共同訳のマルコによる福音書には、こうあり、三十年前にこの表現がひじょうに気になったのです。「両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(9:43)。わたしは、ここは「片手になっても」ではなく「片手になって」とすべきだと思ったのです。
では、聖書協会共同訳ではどう訳しているの気になり、調べてみました。すると、「両手がそろったままゲヘナの消えない火の中に落ちるよりは、片手になって命に入るほうがよい」となっていました。まさに「片手になって」と訳されていました。感慨深いものがありました。
「片手になっても」と訳すか、「片手になって」と訳すか。かなり違います。「片手になっても」ですと「片手」であることがマイナスのことのように聞こえますが、「片手になって」ですと、そのような差別的価値判断は含まれないように思えます。