650 「天を掘る」
「新版 小林秀雄 越知保夫全作品」(越知保夫 (著)、若松英輔 (編集)、2016年、慶応義塾大学出版会)
本書を編集した若松英輔さんがこう書いています。「越知が論じる小林秀雄は批評家であるととともに一個の聖性の探求者である」(p.527)。
若松さんは続けます。「ここでの聖なるものの探求者とは単に清らかなものを目指す者の呼び名ではない。もっとも弱きものの姿にもっとも美しいものを見出そうとする者である。同時に越知が見る小林は孤高の神秘家(ミスティック)である」(同)。
越知保夫さんは、本書の巻頭に収められた「小林秀雄論」の冒頭に、こういう言葉を引用しています。「脱出するというのなら、走るな。逃げるな。むしろお前に与えられたこの狭小な土地を掘れ。お前は神と一切をそこに見出すだろう。神はお前の地平線上に浮上しているのではない。神はお前の厚みの中にまどろんでいる。虚栄は走る。愛は掘る・・・・もしお前がお前の中に留まって、お前自身を掘り下げるならば、お前の牢獄は天国へ突き抜けるだろう」(p.4)。これはギュスターヴ・ティボンという人の言葉です。
越知さんの小林秀雄論はこれに尽きるのかも知れません。若松さんが言う「聖性の探求者」もまたこのことではないでしょうか。
「彼は、神を信じるとは言わずに自己を信じる、魂を信じる、と言う。彼にあっては、その信じるべき自己、信じるべき魂はパスカルの神のごとく隠された自己、隠された魂であり、「厚みの中にまどろんでいる。」」(p.8)。
この場合、小林秀雄が信じるものは、自分自身や「本当の自分」などではなく、自己の中に隠れている神、自己の魂の中に隠されている神ではないでしょうか。神は「厚みの中にまどろんでいる」ので、知覚は及ばず、信じる、というのではないでしょうか。
信じるとは、探求しないことではありません。しかし、その探求には終わりがないのです。神秘と言うように、その秘密は露になるものではないのです。
「芭蕉が「奥の細道」という美しい言葉で現わそうとしたものも、国土と精神生活とのつながりであって、分け入れば分け入るほど深く遠くなっていく自己の道を国土そのものの深さとして感じたいという詩人の願いを語っている。聖者とはそのような深さの世界に生きる人である」(p.28)。
ここで言われている「国土」は領土のことなどではありません。越知さんが「小林秀雄論」の冒頭に引用したティボンの言う「土地」のことであり「お前自身」のことです。越知さんが小林さんについて言う「自己」のことであり「魂」のことです。
「そのものをかく在らしめている存在の謎――それがつまりはその物の形ということになるのだが――を摑もうとする努力をさすのであって、この犠牲、この努力があればこそセザンヌやゴッホは粗末な敷布や皿や水差しや林檎や椅子などから、あのような気高い作品を生み出すことができたのである」(p.37)。
本稿の冒頭に引用した若松さんの言葉にある「もっとも弱きものの姿」とは、「粗末な敷布や皿や水差しや林檎や椅子」のことでしょう。画家はそこを掘ったのです。
越知さんは本書の二番目に収められている「近代・反近代――小林秀雄「近代絵画」を読む」の中でこう述べています。「セザンヌは「自然は表面的なものではない、深さがあるのだ。色は深さの表面に出た表情である。色は世界の根に通じている。それは世界の生命であり、思考の生命である」と言っているが、小林にとっても「形」というものは、そういうものだったに違いない。形は表面にあって、深さを蔽うものではない。形をこわすことによって深さが現われるのではなく、形がととのえられるにしたがって深さが現前しているのである」(p.65)。
「小林はまた「心を空うして自然に見入る者の目には自然は感覚の深さと感じられる」と言う。ミレーの画の農夫たちが耳をかたむけている自然はそのような深さの世界である。この深さの中で、何ものかが――死滅すべき人間の中の何ものかが――、救われる」(p.71)。
キリスト教では、イエス・キリストの生と十字架と復活を「特殊啓示」と呼び、それ以外で神を啓(ひら)き示していると思われるもの(大自然、天体など)を「自然啓示」と呼び、後者は二次的に扱われる場合がありますが、イエスは自然の中に神を見ていました。
「自然啓示」は「特殊啓示」の前では本当に二次的なのでしょうか。本書を読んでそう思いました。
本書と合わせて、あるいは、本書の前に、若松英輔さん著の「神秘の夜の旅——越知保夫とその時代」を読むと良いと思います。わたしも、まずこれを読み、そこから、本書へと導かれました。