636    「預言者もイエスも農に近かった」 ・・・「聖書と農 自然界の中の人の生き方を見直す」(三浦永光、新教出版社、2021年)

 農村伝道神学校出身の友人が複数いたり、二年前にこの神学校に比較的近い教会に転任したり、去年からそこで週に一度学ぶようになったり、長野や広島で農業を始めたキリスト教の友人がいたりで、この本を読んでみることにしました。

 

 「アモスが語った正義と恵みの業の要求と厳しい裁きの預言は、農村で牧羊と農作業によって質素な生活を送っていたアモスが都市に暮らす王、宮廷人、貴族(大土地所有者)の支配、蓄財、奢侈なふるまいをどのような心で眺めていたかとういう観点から見なければ、十分に理解できないであろう」(p.98)。

 人間にとっての農業の本質性、根本性、創造性は非常に大事だけれども、その農業が搾取されていることを忘れてはならない。

 

 その上で、アモスは「人々が農耕と牧畜の生活において自分たちの労働と神の恵みとしての太陽、大地、水、大気との協働をとおして得られる産物を収穫し、神への感謝と喜びをすべての人たちと共に分かち合うことを求めていたのである」(p.99)。

 

 イエスはどうか。マルコによる福音書4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 

 三浦さんの解釈は独創的である。「肥沃な土地の多くは少数の大地主が所有し、大部分の農民は僅かな土地、しかもあまり良好でない土地を耕作して・・・これら零細農民が自分たちの生活維持のために自分の耕作地を少しでも拡張して収穫を増したいと考え、本来誰も見向きもしないような不毛な土地にも種をまいたとしても、不思議ではないだろう。イエスは、貧しい農民が小石の多い土地や茨の生えそうな土地にさえもあえて種をまいているのを、実際に見ていたのだと思われる」(p.109)。


 イエスは農民や農業を身近に知っていたものの、この話はそれをネタにして創作したたとえ話だろう、とわたしは思っていたが、著者は、農民が実際に荒れ地にも種を蒔かざるを得なかったのをイエスは目撃していたと言う。

 では、蒔いたその種はどうなったのか。「しかし農夫のかすかな期待にもかかわらず、まかれた種はやはり実を結ぶにいたらなかった。土地を根気よく耕し、畑に水を引き、茨を刈り取った努力も、甲斐がなかった・・・農民の言いようのない気持ち・・・彼らの生活状態。イエスは語りながら、このことに思いをいたしたであろう」(同)。

 

 けれども、農民の置かれたこのような過酷な状況にも関わらず、農の本質性、根源性はなくならない。

 

 マルコ4:26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。4:28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。

 

 「イエスのいう『神の国』とは、この農夫が麦を栽培し収穫して暮らしているような農耕生活そのものをいうのではないか」「『神の国』とは、農耕労働にいそしみつつ、自然の恩恵に信頼し守られて生きる人々の生活そのもののことではないかと思われる」(p.114)。 「『神の国』とは、人間をも含めたあらゆる生き物を生かしめている(神の創造物としての)自然全体の営みではないだろうか」(p.118)。

 農は「神の国」の比喩ではなく、神の国そのものである、というのだ。たしかに、イエスが「空の鳥、野の花を見よ」と言ったとき、鳥や花は比喩ではなく、イエスが言おうとする神の国自体であったことだろう。

 「『神の国』はむしろ、だれもが神の恵みである自然(太陽、水、土地など)を等しく利用でき労働する世界、だれも政治権力や広大な土地の占有や宗教的な律法によって互いに支配し合わない世界、各自が自分の勤労の産物を神と自然からの賜物として享受し生きる世界である」(p.121)。

 神の国、そして、農、土地は神の恵み、すなわち、人間にとって本質的根源的なものだから、略奪されたり、搾取されたり、独占されたりしてはならない。

 

 ヨハネ福音書15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。

 

 この聖書箇所を、著者はこのように評する。「ぶどうの繁殖と人間の弱者に対する愛の広がりが、植物という生き物、人間という生き物として同次元で見られていることに注目したい」(p.129)。

 

 ミカ4:3 主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。

 

 著者の三浦さんは内村鑑三を引き合いに出しつつ、このように述べています。「この一節はふつう平和主義の預言と理解されていますが、同時に農業を国の基本とする政策と捉えることが表明されていると思います」(p.152)。

 

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