549 「社会はなかなか動かせないが、少しは動く」・・・「社会学への招待」(ピーター・バーガー、2017年、ちくま学芸文庫)

 男性であり、父親であり、教師であり、牧師である人がいたとする。この人は、男性とはどのようなものなのか社会から学び、社会が期待するような男性になる、あるいは、なろうとする。

 

 この人は、父親には子どもの養育の責任があると社会から学び、それに沿うように生きる、あるいは、そうできないことを嘆く、あるいは、そのような父親像を放棄する。いずれにしても、この人にとって、父親であることは、社会が描く父親像に縛られることである。

 人間は自分の意志で自由に生きているのではなく、社会の制度、通念、空気、思想などに縛られる。

 

 「アイデンティテイ形成過程は、一般的に、非反省的・非計画的・準自動的なものなのだ」(p.179).

 

 教師は生徒に教えることを当然とし、「教えてよいのだろうか」などと反省はしないだろう。牧師は毎週日曜日の礼拝で説教をすることを準自動的に当然視するだろう。

 

 「社会は、われわれが何をするかを決定するだけではない。われわれが何者であるかをも決めてしまう」p.154)。

 

 社会は、男とはこういうものと決めてしまう。わたしたちはそれに縛られている。

 

 わたしたちは社会からの束縛や社会の決めた役割から脱出できないのだろうか。わたしたちは、社会の操り人形として、男性、父親、教師、牧師を演じさせられるしかないのだろうか。

 これを突破する、というより、この社会を少しだけでも揺り動かす道を、バーガーはいくつか示している。

 

 「ある社会の『自明な世界』を突破するという可能性は、ウェーバーのカリスマ論として展開されている・・・カリスマ的権威の範型は、『あなた方は・・・・・・と言われているのを聞いているだろう。しかしわたしはあなた方に言う』というイエスが繰り返し行った断言のうちに見いだすことができる」(p.207)。

 

 なるほど。イエスファリサイ派的律法学者的束縛社会を揺り動かそうとしたのだ。

 

 しかし、これは世界全体を変えるまでにはならない。

 「つまり、カリスマの持っていた根源性という牙を抜かれた形で、社会構造のうちに再統合されてしまうわけである。預言者に続いては教皇が、革命家に続いては行政官が登場してくる」(p.208)。

 

 だが、ここで絶望してはならない。

 

 「それだからといって、世界はそれ以前とまったく同じというわけではない。革命家たちが熱望し期待していたほどの変化はなかったとしても、そこには確かに変化があったのである」(p.209)。

 「社会的に絶対的な権力というものが存在しないように、絶対的な無力も存在しない」(p.212)。

 

 日米安保、沖縄の米軍基地、日本の原発政策、貧富の差、マイノリティ差別、資本主義による貧富の差による生活破壊・・・強い者、権力者たちが「社会はこんなもの」というイデオロギーをも武器に防衛する「虚偽=社会」は強固だ。


 しかし、人間を縛る社会は人間の意識が構築したものでもある。びくともしないことはない。揺らすことも、少し変化させることも可能なのだ。集合的な意識の変化、あるいは意識の変化の積み重ねは、社会を変えうる。たとえば、人が人を差別するという事態は今も深刻だが、カリスマ的なあるいは他のタイプの努力によって、人権意識には変わってきた部分もたしかにある。
 

 

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