625   「人間による人間の支配には従わない、神自身も支配者ではない」・・・「アナキズムとキリスト教」(ジャック・エリュール、新教出版社、2021年)

 いかなる権力、支配にも従わない。聖書はそう言っている。初期のキリスト教もそうだった。この本が述べていることは、こういうことではないでしょうか。

 

 では、本書が言うアナキズムとはどのようなものでしょうか。

 

 「無秩序という通常の意味とは異なる an-arche、すなわち権威と支配がないという意味でのアナーキー」(p.97)。

 

 anは否定語、archeは支配という意味でしょう。

 

 具体的には、「平和主義的・反ナショナリスト的・反資本主義的・道徳的、そして反民主主義的な(つまり、ブルジョア国家の歪んだ民主主義に敵対する)アナキズム」であり、「説得的に行動する――小グループやネットワークを結成し、虚偽と抑圧を糾弾し、最下層の人々の声と組織化によってあらゆる権威を真に転覆することを目指す――アナキズム」(p.40-41)だと著者は言います。

 

 さらに、著者にとって「アナーキーという言葉が意味するのは、暴力の絶対的拒否」(p.37)であり、それと関連しているのか、「真のアナキストは、アナキズムに基づく社会――国家、組織、階級、権威のない社会――が実現され、生きられ実践されうるものだと考える。しかし、私はそうは思わない。言い換えると、アナキストの闘争――アナキズムに基づく社会のための闘争――は必須のものだが、そのような社会の実現は不可能だと思わざるを得ない」(p.48)とも言っています。真のアナキストとはどういう意味で言っているのかわかりませんが、著者は自分は真のアナキストではないと言っています。

 

 では、「権威と支配がないという意味でのアナーキー」とキリスト教がどのような関係があるのでしょうか。

 

 著者はまず聖書の神の性格を述べます。

 

 「聖書の神は全能ではあるが、その異様さゆえに詳述されている特定の出来事を除けば(たとえば大洪水、バベルの塔、ソドムとゴモラの出来事など)、実際には人間との関係においてその全能性を発揮していない。神の全能性が自己限定的なのは、気まぐれや思いつきではなく、何事も神自身の存在と矛盾を来たさないようにするためだ。つまり、力というものをはるかに超えて、神の存在は愛であるという極めて重要かつ定まった事実があるのだ」(p.69)。「神の力がどれほどのものであっても、その第一の側面は決して絶対的な支配者や全能者といったものにはない。それは、自らを人間の水準に合わせて自己限定する神にある」(p.71)。

 

 つまり、神においては、力、権威、支配よりも、愛がその存在を示す、ということではないでしょうか。

 

 ヘブライ語聖書(キリスト教徒が旧約聖書と呼ぶもの)においても、「一連の事実には、反国家的とは言わないまでも一貫して反王権的な感情が、驚くべき仕方で表れているように思われる」(p.107)、「国家や政治的権威や権威的組織に何の価値も見いだしていなかった」(p.113)と著者は評しています。

 

 新約聖書に移ると、まずイエスについて、「権力の敵だったということではなく、彼が権力を軽蔑しており、権力にいかなる権威も認めなかった」「あらゆる形で彼は権力に徹底的に意義を唱えたが、それを破壊するために暴力は用いなかった」(p.115)と著者は論じています。

 

 「イエスに直接従った人にとっても、初期のキリスト者たちにとっても、政治的権威――私たちが国家と呼ぶ――は、悪魔と悪魔からそれを授かって保持している者に属するものだった」(p.118)。

 

 ただし、それは、国家や王を打倒することではなかったと著者は述べます。

 

 「王と戦うことに拘泥してはならない。そのまま放っておきなさい。そのようなことに興味を持たず、権力、権威、階級のない周縁的(マージナル)な社会を建て上げなさい」(p.124)というのが、イエスのメッセージであると言うのです。これは、さきほどの「アナキズムに基づく社会の実現は不可能」という著者の考えにつながります。

 

 イエスが「勧めているのは、社会にとどまり、その中に別の規則と別の方に基づく共同体を建て上げるべきだということである。この勧めは、権力というものを変革することはできないという確信に基づいている」(p.124)。

 

 新約では、イエスのみならず、ヨハネ黙示録についても、「この書全体で、政治権力への異議が唱えられている」(p.139)と著者は言い、ペトロの手紙一も「ローマ皇帝の権力を糾弾する姿勢」(p.148)を示しており、パウロもローマの信徒への手書き13章で政治権力への従属を勧めているのではないと言います。

 

 キリスト教徒のこのような姿勢は、314年のアルル教会会議までは続いたけれども、ここで、軍役を拒否したり軍に反乱を起こしたりする信徒は破門にすることが決められ、「この会議によって、キリスト教の反国家的・反軍事的、そして現在ならばアナキスト的と言うべき運動は、終焉を迎えた」(p.184)と著者はまとめます。

 

 つまり、著者の主張は、暴力によって革命を起こそうとしてはならないし、権力や支配のない社会は実現しないが、それでも、それが人間を苦しめるならば、それに服従せず、非暴力の抵抗を続けよ、また、権力や支配のない(国家や社会ほど大規模ではない)共同体を構築せよ、ということではないでしょうか。

 

 小規模の教会、子ども食堂、勉強会など、わたしたちにも可能なことがあるかもしれません。また、出版という事業も、出版者の考えの一方的伝達、優劣支配から自由な著者の選択の可能性を秘めているのではないでしょうか。

 

 希望を与えられ、勇気づけられる一冊です。神のみが支配者、とするのではなく、神自身、支配を第一としない存在、とするところが、新鮮でした。

 ページを開いたままで机上に置くには、かなりの重しがいるのが、少し残念でしたが。

 

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