神の存在や活動がほとんどすべての人びとにとって当然だった時代がありましたが、現代では、神は行方不明になり、せいぜいたまに「うわさ」を聞く程度になってしまいました。
しかし、著者は「われわれはそのうわさの探求に着手出来る――そして多分、そのうわさの源泉にまでたどりつくであろう」(p.183)と言います。
聖書には、イエスは天に昇った、とありますが、いくら熱心なキリスト教徒であっても、神のところに行こうとロケットに乗る人はいないでしょう。
近代の聖書学は、聖書の中には神話的な記述が多いことをあきらかにし、文字面をそのまま信じるよりも、その表現の深い意味を考えることを促し、その意味で、聖書を相対化しようとしましたが、バーガーは、このような近代聖書学の姿勢も、神話的な記述をした古代聖書著者と同じく、相対化されるべきものだと指摘しています。
「相対化論者もこうして相対化され、暴露する者は次に自身が暴露の対象となり、――事実、相対化思考様式そのものが、とにかく精算をせまられることになる」(p.93)。
バーガーは、各時代には「特有の超越のしるし」(p.156)があると言います。その意味では、「この世における神の救いの臨在は、歴史の中にあらわれたが、それは新約聖書の中に記されている、特別な歴史的出来事の中に一回だけ与えられたものではない」(p.177)のです。
では、わたしたちの時代にはどのような「超越のしるし」があるのでしょうか。
「この世におけるキリストの救いの共同体は、人間の経験的歴史の中に、常に存在し続けるものと見なければならない。愛と希望と憐れみの救いの行為が、人間の経験の中に繰り返されるところには、内在的にこの共同体が存在するのである。このことは、この世界を創造し、これを贖い、多分『イエスの中に』存し給い、また人間が救いの愛を真似るところには常にはおられる神との関係において、これらの行為が理解されるところで明白となるのである」(p.178)。
ようするに、「愛あるところに神あり」(トルストイ)ですね。たしかに、わたしたちの時代には、「天使のうわさ」はこのように伝わって来そうです。けれども、このバーガーの言葉、二千年前の時代の聖書の言葉にも似ていないでしょうか。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(ヨハネの手紙一4:12)。
うわさの源泉はここなのでしょうか。聖書は、神話的記述ばかりでなく、それを乗り越える道もすでに示していたのかも知れません。