「信じない人のためのイエス入門 宗教を超えて」（スポング著、富田正樹訳、2015年、新教出版社）
聖書にはふつうには信じられないような奇跡がいくつも出てきます。しかし、そんな馬鹿なことがあるはずがない、と最初から相手にしないのは少しもったいないかもしれません。
聖書に書かれていることがすべて文字通りの史実であるとは信じないキリスト教徒や牧師、神父は、じつは、少なくありません。もちろん、はんたいに、そう信じる信徒もたくさんいます。両者の割合はわかりませんが。
本書では、イエスが起こしたとされる奇跡、十二弟子、イエスを裏切ったとされるユダ、イエスの父ヨセフの存在などは史的事実ではないという見解を聖書のテキスト自身を分析しながら説得的に展開しています。しかし、これはこの著者に限ったことではなく、近代の聖書研究史からすれば目新しいことではありません。
イエスの言動を描く（新約聖書の）福音書がどのようにして出来上がったかということについては、いろいろな研究や考察がありますが、本書では、旧約聖書の登場人物と同名の人物を敢えて登場させるなどして旧約聖書のモチーフを福音書は援用していること、また、福音書は史実を描くよりもユダヤ教の年間祭暦にイエスの物語を当てはめようとしていることなどから説明しています。
つまり、福音書はイエスの史実ではなく、大半はフィクションだということです。ただ、まったくの作り話ではなく、イエスという人がいて何かを言い何かをなしたという史実や、そのイエスと出会った人々が経験したことがあり、それをコアにして、しかし、大幅に脚色して表現したのが福音書ということになるでしょう。
では、人びとがイエスとの出会いで経験したリアリティとは、どのようなものだったのでしょうか。著者は言います。「神とは、人間性が障壁のない状態に達するまで人間性の内部で膨張しつづける命の力である。それがイエスの人間らしさの充満の中に啓示された神である」(p.341)。
「障壁のない状態に達する」。つまり、イエスは女性、外国人、子ども、病気の人、心身に痛みを抱える人びと、貧しい人びとを差別しませんでした。当時の社会通念や社会が張ったバリアシステムにおいて、これは考えられないことでした。少しばかり差別に反対する人ややさしい人はいたかも知れませんが、社会から排除された人びとをまったく分け隔てしないイエスのあり方は並外れていて、ほんとうに壁のない人間性を持っており、自分がそのようにイエスに接されたり、かたわらで目撃したりした人びとのこころに、人間を超えた「命の力」を感じさせたのではないでしょうか。
このリアリティはつぎのようにも言い表されています。「キリストにおける神体験への呼びかけは、私たち一人一人全ての者に向かって、ありのままの自分であれと呼びかけるシンプルな呼びかけである――それは私たちの人間性の存在を通して、全ての人がもっと十分に生き、もっとふんだんに愛し、自分がなりたい者になる勇気を持つことができるような世界を造ることによって、神からの贈り物を全ての人に与える呼びかけである。それが神の臨在を生きるということである。神は生きること、愛すること、存在することそのものである」(p.360)。
あるいは、このようにも描かれています。「命の源であり、愛の源であり、存在の根底であり、聖なるものへの神秘への扉、これらに至る道であり、またこれらを具現した方」(p.25)。あるいは、「存在への勇気」「生きる力」「その愛、その自由、その命、その存在」(p.364)。
これらは、太古の福音書に描かれたイエスの物語が伝えようとしたリアリティを、現代の著者が表現しなおしたものです。奇跡を起こしたり罰を与えたりするような存在としての神表現は、現代人には受け入れにくく、また障壁を作り出し差別を起こすと言います。
それはその通りだと思いますが、では、三つ前の段落で引用したような表現が現代人にわかりやすいかというと、そうでもないでしょう。こんな言い回しより、「イエスさまは十字架についてわたしの罪を赦してくださった」「イエスさまは復活してわたしのところに来てくださった」という方がよほどわかりやすい、よほど自分をはるかに超えた力を感じるという人もいるでしょう。
福音書の物語を使いながらも、それをそのまま史実と信じさせようとするよりは、その奥にある神のリアリティ、真実を伝えようとする努力も、まだ捨ててはならないとも思っています。
