驚くようなパワーハラスメントを長年にわたって受けながらも、いっぽうで雇用者側の虐待と不正と闘い、たほうで生徒たちの現在と未来を願い続けた教員たちがいることに深い感銘を受けました。どうじに、20年近く非常勤の高校講師をしながら、彼女たちの何十分の一も生徒や教育に打ち込んでいない自分を恥じ、しかし、良い刺激をもらいました。
「『荒れ』ている生徒たちも、個々に向き合う機会があれば、その内面にはむしろ素直でまっとうな心があることを私たちは把握していた」(p.113)。
授業をまじめに受けない生徒たちの姿勢を変えさせ自分にとって気持ちの良い授業をしたいという思いだけだと、たしかに、生徒たちの内面の良さやもろさを見過ごしてしまうことでしょう。
「生徒たちの選ぶテーマは、いわゆる『弱者』からの視点であるものが多い。そして、人間が生きること、命、人との関わりなど根源的に人間くさいものばかりだった。『卒論』を通して彼女たちは、それまで生きてきた中での、『自分の問題』と向き合い、葛藤したのではないか。それが形となった時に、生徒は『突き抜けて』いく。抑圧され続けていた人が羽ばたくように」(p.171)。
これは高校3年生の「国語演習」の授業で書く「卒論」のことです。ぼくは、大学のランク付けのような、今の社会の「優劣」の価値観に疑問を持ち、それを乗り越える思想を模索していますが、思想だけでなく、社会の枠組みや日常の価値観においても優劣ランキング汚染を退却させていく必要があるとも考えてきました。この「卒論」には優劣を克服させる実践力があるように思いました。
ある生徒さんは「中学まで勉強が苦手だった私がなぜこんなに勉強に打ち込めているのか、を明らかにしたい」というテーマで「卒論」を書いたそうです。そして、そこには「自分に合う学びをしている人は、生き生きとし学ぶことに魅力を感じ自発的学習をする。よって、学びを嫌っている人は、まだ自分に合った学びに出会えていないだけである」(p.180)と力強く記されているそうです。
これはすばらしい答えの一つだと思いました。このように考えれば、学力テストの結果による偏差値の「低い」学校に入学したとしても、それで「劣」の永久烙印が押されるわけではなく、「自分に合った学び」(おそらく、学力テストに対応するような「学び」だけでなく)に出会え、優劣に絡めとられない成長の可能性があるのではないでしょうか。
著者や同僚たちは勤務校で信じられない不当な仕打ちを二十年、三十年と受けています。雇用者は各種裁判で負けているにもかかわらず、根本的な反省をしません。しかも、キリスト教精神を騙っています。人間はここまで無反省、自己正当化を貫けるものなのでしょうか。
このような不条理にもかかわらず、上述のような教育、生徒との学びを実践している先生方を心から尊敬します。