581 「能力、功績は、ほんとうに自分だけのものか」
「実力も運のうち 能力主義は正義か?」(マイケル・サンデル、2021年、早川書房)
女性であるから、黒人であるから、貧しいから。こういう理由で、人を不合格にしたり不採用にしたりしてはならない。そのとおりだ。
しかし、「能力によって合否、採否を決めるべきだ」という考え方は正しいのだろうか。
たしかに、プロ野球チームは、打率一割ホームランゼロより三割三十本の選手を採用するだろう。
けれども、それは、その選手の努力のたまものなのだろうか。努力もしただろう。しかし、もともとの才能は、その選手が獲得したというよりは、たまたま持ち合わせて生まれて来ただけのことではなかろうか。
共通テストで得点率95%の受験生がいるとする。努力はしただろう。しかし、たまたま生まれつき持ち合わせた共通テスト用の能力がなければ、つまり、努力だけでは、そんな異常な高得点はとれない。
実力のある人はいる。しかし、それも、10%の努力と90%の運(天賦の才能)なのではなかろうか。しかし、この人は、努力をしたと賞賛され、高額の所得を得ることができる。
同じ努力をしても、運が十分の一の人は、努力が足りない、実力がない、劣っていると軽蔑される。所得も相当に少ない。
こう考えると、性や人種によらず実力を、という考え方も、正義とも公平とも言えないのではないか。
では、どうしたらよいか。その答えを期待して、読み進めたが、これは難問らしい。魔法の答えはなかった。
ただし、消費や金融よりも生産労働に敬意を払うことで、あるいは、マネーゲームによる収入には税金を高くし、はんたいに、労働者の所得税は低くする、あるいは、ゼロにすることで、金融業と生産労働者の収入格差を縮められ、労働者の尊厳も少しは守られるのではないか、というようなことは書かれていた。
人が受け取る収入や敬意は・・・収入と敬意をたんじゅんに並列することにはためらいがあるが・・・性や人種や年齢や国籍によるものであってはならず、同時に、能力や功績(本書の解説者、本田由紀はmeritを能力よりも功績と訳したほうがよい場合もあると言う)によるものであってもならず、健康で文化的な生活を営むことのできるレベルのものでなければならないと思う。
どうしたらよいか。ベーシックインカム? 金持ちへの高税? 生産業への敬意? どうじに、賃労働以外の生の営みへの敬意・・・