「社会学的想像力とは、政治的なものから心理的なものへ、ある単一家族の調査から世界の国家予算の相対評価へ、神学校から軍事体制へ、石油産業への考察から現代詩の研究へ、というように、あるパースペクティブを別のものへと切り替えてゆく能力なのである」(p.23)。
牧師を要請する神学校と軍事体制。あるものから、一見無関係な別なものへ視点を切り替える能力。たとえば、プロテスタンティズムと資本主義。両者の間の見えない関係を想像的に発見する。論や学や思考はこうして動き始める。
「想像力には予期できないところがある。おそらくその理由は、その本質が、誰も結びつくとは予想しなかったアイディアの結びつきだからである・・・遊び心のある精神」(p.354)。
文章を書く、話を創ることも同じではなかろうか。数行の段落はいくつか書ける。問題は、段落と段落をどのように結びつけるか。千字の文章なら、数個の段落をいかに結び付け、話のテーマ、流れ、起承転結をつけるか。それが想像力の仕事だ。想像力が結び付けたAとBのつながりを他の人にわかるように伝えるには、想像力を論理に近づけることが必要だろう。
そして、そして、そしての文章は稚拙だ。ここには想像力も論理もない。まず、つぎに、したがって、なぜならば、それゆえに。しかも、これらの接続詞を使わずに、これらの接続詞の論理で、いくつかの段落を連ねた文章は、うつくしい。
読み手、聴き手の想像力が、書き手、語り手の想像力に協力する。書き手、語り手の想像力は、読み手、聴き手の想像力を信頼する。これ自体、社会(学)的事態ではなかろうか。