1789年のフランス革命勃発あたりからを近代とみると、1864年生まれ1920年没のウェーバーは、近代の成人期から中年期を生きた、と言うことができるかも知れません。
本書は、ウェーバーがどういう意味で近代と格闘したと言うのでしょうか。
「究極的な『実体』を設定する議論は、なんでもそれを根拠にして説明しようとし、かつそうすることができてしまう。したがってこうした議論は出来事をすべて現状追認的に正当化してしまい、批判的な問い直しを不可能にする。ウェーバーはこの点を問題にする」(p.64)。
科学の発展につれて、人間はすべてを理解し、すべてを説明できる気がしてしまうようになりました。そうすると、それは本当に正解なのか、あるいは、唯一の正解なのか、という批判は不可能になってしまいます。
「私たちは皆、なんらかの『観点』に立脚してものをみているのであり、そうした(主観的な)『観点』なくしては、そもそも世界をみることはできない。ウェーバーはこのことを強調し、そのうえで、自分が立脚する『観点』を自覚することを求める」(p.68)。
わたしたちはどこかの「観点」から物事を見ているのであり、その観点の影響を受けています。しかし、そのことに気づかず、自分は客観的に正しいと思い込んでしまいます。
「内面ではなく、外枠が自己展開するなかで、内面はむしろ外枠によって閉じ込められ、それどころか無用なものにされていく・・・内面があって外的な仕事がなされるのではなく、外的な仕事の要請に合わせて内面的なモチベーションがでっち上げられる」(p.87)。
この職業は神から与えられた天職であるという使命感、そこからくる勤勉といった内面の精神が、資本主義の成長を促したが、やがて、資本主義の外枠がその内面精神から独立して大きくなり、内面を閉じ込めてしまう、とウェーバーは指摘します。そして、今や、外枠そのものが資本主義になり、その拡大のために、内的な動機づけを要求します。「自分らしさ」「自分のいきがい」などといった言葉は、そのために資本主義が作り出したものです。「自分らしさ」追及という内面精神が資本主義を養うのではなく、資本主義がもっと大きくなりたくて「自分らしさ」などという動機を労働者に押し付けるのです。
「優れた政策を提案し、それが支持されて、選挙に当選する、という論理が崩壊する。優秀なマシーンさえもっていれば、どんなに政策が貧弱で、候補者がダメでも、票を積み上げ、当選者を増やし、政治的影響力をもちことができてしまう。政治家がいてマシーンを使いこなす、というよりは、マシーンの論理が使命感をもって登場してくる若い政治家を押し殺す。勝てるとなれば、その理念に共鳴しているわけでもないフォロワーが利権を求めて押し寄せ、そうしたフォロワーがマシーンを強化する」(p.120)。
近代の民主主義、普通選挙が行きついた先がこれでした。これは、今の世界各国に当てはまるのではないでしょうか。
「行政事務が複雑化すればするほど、当然のことながら、行政の論理が政治の論理を圧迫し、テクノクラシーの論理が支配的になる。ウェーバーが注目し、また抗おうとしたのは、こうした意味での官僚制化であった」(p.125)。
これも然りですね。
「学問によって一つの真理に到達することができ、これによって政治的な『正しさ』を基礎づけることができる、という想定は、ウェーバーによって完全に否定されている」(p.205)。
最近の反知性主義の蔓延を想うと、これには無条件では賛成できません。政治が学問を無視し、政治は政治と居直っています。政治的な「正しさ」は学問によって批判される必要があるでしょう。