今回のパンデミック、あるいは、大地震、大津波のような大災害は、人間を悔い改めさせるために、あるいは、罰を与えるために、神が起こしたのではないか、と考える人がキリスト者の中にもいるが、そうではない、と著者は言います。
本著で、著者はまず、現在のコロナウィルス禍において「私たちにはできることがある。それは、嘆くことであり、不満を言い表すことである」(p.27)と言います。
そして、そのとき、聖霊が「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(ローマ8:26)ことや、イエスがラザロの死に際して涙を流したことを著者は指摘します。つまり、私たちが嘆くとき、神もその悲嘆をともにしてくれると。
つぎに、著者は、イエスも戦争、飢饉、地震などについて語ったが、それは、人びとを悔い改めさせるためではなく、むしろ、「慌てないように気をつけなさい・・・まだ世の終わりではない」(マタイ24:6)と希望を語るためであることを指摘します。
さらに、「万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)は、一般には、どんなことが起こっても、どんな災害が起こっても、それは、最終的には人間の「益となるように」作用すると解釈されるが、そういう意味ではない、と著者は言います。
すなわち、「共に働く」の主語は「万事」(災害など)ではなく、神と人である、というのです。
つまり、コロナウィルス禍においても、神は私たちを通して、あるいは、私たちとともに、益に向かって働く、ということでしょう。
言い換えれば、この苦しみを乗り越えるために、神が最善をつくしていることを信じて、私たちも一緒に働くように促されているということでしょう。