黒人霊歌とブルースは、黒人が受け続けてきた差別、侮蔑、虐待、虐殺の経験に根差している。それにもかかわらず、抹殺、絶滅されない黒人の尊厳を支え、また、その尊厳から歌われている。
「わたしはイエスが来たりたもうときいっしょにもどろう/彼は今日は来ないかもしれない/だが、とにかくおいでになる」(p.98)
この霊歌の一節は、黒人の不安、あてのなさではなく、むしろ、確信を伝えている。「今日は来ないかもしれない」が「とにかく」イエスは来る。「何月何日に」「いつまでに」というより、この方が確信に満ちている。
「彼らは悩みを取り除いて欲しいということよりは(そのことも含まれてはいたが)、むしろ、『意気阻喪すること』から守ってくださるようにと、イエスに訴えた」(p.108)。
彼らは今の苦難、毎日の虐待、蹂躙、疲労、激痛、叫喚から救ってくださいとも祈ったが、どうじに、これに潰されないように、これに体と魂を消滅させられないように守ってください、と祈ったのだ。
「福音列車がやってくる/汽車賃は安くて誰でも乗れる/金持も貧乏人もいっしょにいる/この記者には二等車はついていない/汽車賃に区別はない/まだ多くの人のために席がある」(p.158-159)。
この列車に乗って彼らは天国を目指す。この列車の名前はきっと、ジーザスだろう。そして、天国とは「白人が黒人の歴史を抑圧し、アフリカ人を野蛮人(ママ)ときめつけても、黒人は、宇宙の究極的主権者である天の父(ママ)によって保障された、ひとかどの人間性(somebodiness)を持っている」(p.153)という事態を意味する。
「ブルーな気分とは悲しみ、挫折感、絶望、そしてこれらの実存的現実を自己の上に引き受け、しかも正気を失わないようにしようとする黒人の試みのことである」(p.205)。
ブルースとはそのような歌なのだ。
「時々わたしは無なるもの、投げ捨てられた何かのような気がする/そんなときわたしはギターを取って、一日中ブルースを弾く」(p.227)
黒人ではないが、仕事で差別され侮辱され打ちのめされ斥けられつづけている友人が何人かいる。無理に元気を出してもらったり、希望を持ってもらったりしたいとは思わない。
けれども、受けてきた虐待、被ってきたブルー(ス)を、不器用にでも語ってほしい、吐き出してほしい、そうやって何とか生き延びてください、と切に願っている。