ぼくは牧師です。精神科医ではありません。しかし、「臨床」という共通点があります。医師ではなかった賢治の名もここに並んでいるように。臨床とは床に臥すような苦しみにある人のかたわらに臨むことでしょうか。
言葉、態度、まなざしといった人間関係によって、人は傷つき、かつ、慰められます。
「彼は『毒消し』と称して、怒りや憤りのこめられた初原稿に手を入れて『毒消しバージョン』を作成した」(p.70)。
原稿のみならず、ネット、メール、リアルでの言葉の発信の前に、「毒消し」をする精神の深い習慣を身につけたいものです。言葉は毒に満ちていますから。
「治療者が患者に“皮肉な視線”を向けない」(p.74)。
これも「毒消し」に通じます。視線も毒をはらってから向けるようにしたいものです。
「誰もが感じてはいるがうまく言葉にできないもの、通常の言葉や論理では掬い取れないもの。そういうものを、平易な言葉を使ってすーっつと掬い上げる」(p.77)。
イエスのたとえ話も本来はそういうものだったのかも知れません。そのイエスを語る牧師の礼拝説教もまた、聴き手が感じているものを平易な言語で語ることがよいのではないでしょうか。
「治療的努力を続けているかぎり、患者の病状が改善せずに停滞しているとしても、それはいずれ蝶にうまれかわる可能性を秘めている」(p.101)。
患者に限らず、もう長く苦しんでいるとしても、その人が秘めている、やがて羽ばたく可能性を信じるべきだと思いました。
「このような患者の心細さに寄り添うためにこそ戦略的な楽観主義が不可欠」(p.109)。
患者に限らず、目の前にいる人の心細さをしっかり受け止めなければなりません。安易に「大丈夫、心配ないよ」などと言うべきではありません。しかし、悲しみ苦しみの深い共感に基づいた上で、その意味で「戦略的な」楽観主義が大切なのです。ちなみに、悲しみの共感と悲観主義は似て非なる物でしょう。
「言語レベルと非言語レベルとでつたえるべきものが違うこと(前者は的確さ、後者は温かさややさしさが伝わるべきである)」(p.122)。
とくに、相手が厳しく感じることを伝えるときは、適切的確な言語と、温かな空気が必要なのでしょう。
「精神療法の世界において神田橋がもたらす時間は、生命の自然としてのシンプルで豊穣な、大河のような時間である。太古の時代から遠い未来に至るまでの悠久の時間」(p.144)。
神田橋條治医師の何千分の一の、ゆったり感をもって、人に臨み、聞き、寄り添うことができたらよいでしょう。
「他者の苦しみという〈床〉に〈臨〉み、手の施しようのない状況であっても、夜空とまたたく星を身中に宿したデクノボーとしてそこにあるということに賢治は自己と他者の究極の救済を見出したのではないだろうか」(p.158)。
賢治が臨床家に列せられるゆえんです。
「治療者は患者の投影や同一視を受けて患者の全能的統制下の対象となり、患者から破壊的攻撃を受けるが、治療者はそれに耐えて報復せず、生き残っていくことによって患者にとっての現実的対象へと変化していくことが肝要」(p.162)。
「報復せず、生き残る」とありますから、DV被害者が加害者から逃げ生き残ることも含まれるかもしれません。法的対処などは報復ではないでしょう。攻撃的なメールや電話などがつづく場合は、ときには、それで傷つくからやめてほしいと伝えながら、それでも、その人にやり返さないで、ここに居続けることがよいのかもしれません。
「言葉の内容の力もさることながら、氏の声もまた、深みがあって甘く、軽やかでいてずっしりした重みがある。眼前の生身の人間の発した声というよりもどこか時空を超えたところから発せられた声のように聞くものの心を揺さぶる」(p.184)。
これも神田橋医師のこと。この何万分の一の声が欲しいものです。
「かかわり続けるということ、会い続けるということ。どういう形であれ、面会をつづけること、回復を待ち続けることこそが、治療となる場合がある・・・臨床を続けることそのものが時間を生み出す。その時間が人を洗う。海の波に洗われ続ける岩のように、人間に時間のヤスリがかかる」(p.212)。
神田橋医師のように声そのものが悠久さを湛えていれば、そこには、人を洗い、ヤスリをかける「時間」が含まれているのでしょう。ぼくたちは、せめて、苦しみ人の横にいるときは、時刻の迫りを感じさせないようにしたいものです。