「世界は心的外傷に満ちている。“心の傷を癒すということ”は、精神医学や心理学に任せてすむことではない。それは社会のあり方として、今を生きる私たち全員に問われていることなのである」(p.258)。
心に傷害を負った三十年前、ぼくは、一方では、自分の心を自分の体内で治癒するための書を漁ったが、他方では、自分の内的救いを求めるだけで社会の救いを放置してよいのかという引け目があった。そんなとき、社会の問題をも重視する信田さよ子さんのような精神治療家にも出会った。人の心と社会とは別問題ではなかったのだ。
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい』」(マタイによる福音書8:3-4)。
イエスの時代、病者は社会の外にはじき出された。病が癒えれば社会に戻れた。言い換えれば、社会とのつながりを回復することが、イエスの「癒し」だった。本書の著者の安克昌さんなら、「ケア」と言うかも知れない。
「被災直後の人たちには、自分たちが見捨てられていないと感じる必要がある」(p.27)。医学的にPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断される病者を軽視してはならない。しかし、「世界は心的外傷に満ちている」。被災者には、あるいは、いろいろな形で傷ついている人びとには、人とのつながり、社会とのつながりが大切だ。
「心のケアを最大限に拡張すれば、それは住民が尊重される社会を作ることになるのではないか」(p.69)。
「住民が尊重される」とは人権や衣食住の保証とあわせて、その人の心が大切にされることであろう。しかし、それは「あなたの気持ちはよくわかります」ということではない。
「わかりますよ、と言ったとたんに、私の姿勢そのものが嘘になってしまう」(p.74)。けれども、安さんは、しょせん人の気持ちなどわからない、とクールに言いたいのではない。「(わたしの苦しみなど誰にも)わかりっこないけど、わかってほしい」ということをわかろうとする、「品格」のある、やさしい人なのだろう。品格とやさしさこそが、人が社会で生きる意味ではないか。
本の中でしかあったことがないけれども、ぼくは、39歳で夭逝した、同じ年生まれの安さんが好きだ。尊敬する。