510 「定住生活に非定住の自由と愛を回復させるには、一緒にご飯を」 ・・・   「福音家族」 (晴佐久昌英、オリエンス宗教研究所、2020年)  

 

 イエスは、血縁に関係なく、人びととともに旅をしたり、食事をしたりしていました。晴佐久神父の言う「福音家族」も、血縁に関係なく、ともに食事をする共同体です。そこには、イエスから受け継いだ「無期限のつながり」「無償の分かち合い」「無条件の助け合い」(p.115)があります。

 

 「無期限のつながり」とは「何があろうとずっと一緒」「この世の都合による期限がない」ということです。誰も追い出されることがありません。「家族とは人の選択によるものではない」からです。「無償の分かち合い」とは見返りを求めることのない「純粋贈与」(p.117)であり「平等に分ける」ことです。「無条件の助け合い」とは「相手がだれであれ、互いに助け合う」(p.118)ことです。

 

 「福音」とは「すべての人は神に愛されている」という「幸福なおとずれ=知らせ」のことだと思いますが、「人々が本当に求めているのは、福音の理解ではなく、福音体験です」と晴佐久さんは言います。

 聖書の言葉を引用しながら「神はあなたを愛している」と書いてあると教えるのでもなく、そういう理屈なのだと理解することでもなく、その共同体に排除されることなく、受け入れられ、一員としてその場にいることができる、そのような幸福な体験を人びとは求めている、というのです。

 

 「福音の理解よりも福音の体験を」とは、かなり斬新な表現ですが、さらに革新的なことには、晴佐久さんはこう記しています。「入門講座はあくまでも福音家族への入門であって、洗礼を受けなくとももはや家族という、福音体験の場なのです」(p.62)。「洗礼を受けなくとも」という言葉が出てくる入門講座は革命でしょう。

 

 「そもそも、福音家族体験をしたならば、それはすでに広い意味での洗礼を受けているのであり、狭い意味での水の洗礼はそんな家庭の奉仕職として受けるのですから、すべての福音家族が受洗する必要はありません」。

 

 これは洗礼はどうでもよいと言っているのではありません。一方で、神の愛を感じるような幸福な共同体を経験することがすでに神の愛を受ける(広い意味での)洗礼体験である(イエスが洗礼を受けたとき「これは私の愛する子」という神の声が響いたと福音書にあります)と無償の愛を伝えながら、水の洗礼を受けた者はそのような広い意味での洗礼体験を人びとにもたらす奉仕職に任じられているという厳しいことも言っています。

 

 血縁によらない者同士が家族として食事をする。これは、晴佐久さんによれば、原罪からの救済に関わることでもあります。原罪は、人類の定住と農耕の開始により決定的になったというのです。「定住は排除と戦争をもたらし、農耕は不平等と自然破壊をもたらした」(p.78)。

 

 けれども、ここからの救済は、遊動・狩猟の生活に戻ることではなく、「人間の言葉を、真の価値と幸福を生み出す、より優れた愛の言葉に高め、定住農耕や科学技術を、真の平和と平等を生み出す、より優れた愛のわざに進化させる」(p.79)にあります。これこそが、イエス・キリストの意味であり、使命の本質だと晴佐久さんは言います。

 

 ・・・と書き連ねると難しく感じますが、家制度によって権力に管理・支配されないで、愛と平等に生きるためには、血縁によらない(ひいては、国家の管理する団体によらない・・・)自由な共同体を形成すること、つまり、家族や組織の枠にこだわらず、食事をともにし、時間をともにすることだ、ということではないでしょうか。

 

https://www.amazon.co.jp/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E5%AE%B6%E6%97%8F-%E6%99%B4%E4%BD%90%E4%B9%85-%E6%98%8C%E8%8B%B1/dp/4872321103/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E5%AE%B6%E6%97%8F&qid=1588312872&sr=8-1