役所でも働けない、牧師にもなれない。だから、ソローは「町よりずっと懐の広い森と向き合うことにした」。ぼくは四半世紀以上、牧師として町に生きてきた。そろそろ、森に向かうときかも知れない。この本にはかなり誘惑される。
「神をわがものと思っているかのように話す牧師」。その牧師がそうなのか。牧師という種がそうなのか。
じつは、ソローも神について話す。けれども、神をわがものとは思っていない。「森の生活」には、どこか、イエスの言動を伝える「福音書」の香りがする。
「湖は最も美しく、表情豊かな景観だ。それは大地の目で、その目をのぞきこめば、自分の持つ自然の深さを測ることができる」
「雨音のひとつひとつが、家のまわりの音や景色すべてが、得がたい大切な友人で、それが大気のようにわたしを包んでくれる」
イエスも、湖に舟を浮かべ、麦の穂を揺らし、小鳥の音を聞き、野花を愛した。そこに、神を見た。
「どんなものの近くに住みたいと思いますか。われわれの命の永遠の源ではないでしょうか」。
イエスは、それを「神の国」「天の国」「永遠の命」と名付けたのだった。
「わたしを従わせようとするなら、わたしが頼っている原理より高い原理をもってこなくてはならない」
神を愛し、神が創り、神が住む自然と人を愛する。これより高い原理があるだろうか。
「人はぶれることのない目的を持つことによってのみ賢くなれる。万が一、予想した時間内に目的の港に着くことができなかったとしても、正しい航路からはずれることはない」
ぶれることのない目的地は、永遠の源でもある。
「すべては神秘的で探検しつくすことはできないし、陸も海も果てしなく野性的で、その果ては見えず、深さも測ることができない。われわれは決して自然を味わいつくることはできない」
たしかに、ソローは、神をわがものとはしなかった。
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