「ぜったいに止める」。昨年、国会前に集まった数万の人びとの中で、若者のこの声に耳が傾きました。安保法制は絶対に止めなければならない、その思いは、とうぜんぼくにもありましたが、どうじに、これまでのいくつもの経験から、絶対に阻止しなければならないことのいくつもが阻止できなかった、勝たなければならない戦いに勝てなかった、いや、勝てた戦いなどほとんどない、という思いもありました。けれども、それは、おそらくはこのような抗議活動に初めて参加したであろう若者の「ぜったいに止める」という叫びを冷笑するものではありませんでした。
自衛隊のPKO派遣、アメリカのイラク攻撃も止められませんでした。外国人差別もいまだに許してしまっています。
辺野古と高江では、沖縄の人びとを中心に長く粘り強い毎日の正義行動がなされています。米軍基地建設はぜったいに止めなければなりませんし、既存の基地も沖縄から出て行ってもらわないとなりません。いますぐに。けれども、抗議者への日本政府の暴力はますます激しくなっています。
「ぜったいに止めなければならない」「しかし、相手は絶対に止めない」。ぼくたちはこの矛盾をどうしたらよいのでしょうか。止める努力が不足しているのでしょうか。いつかきっと止まると信じて抗いつづける精神が必要なのでしょうか。それとも。
19世紀、20世紀初頭を生きたブルームハルト牧師父子の課題、そして、父子について著した井上良雄先生の課題も、ここにあったのではないかと思います。
「(ブルームハルトは)聖書が証しする事柄を、そしてわれわれの救いの問題を、単に心情の問題としてではなく、力の問題として捉え、『戦い』の問題として捉えた」(p.78)。
何の戦いなのでしょうか。
「主イエスは、全被造物を救おうとして、今も戸の外に立って、戸を叩き続けていられる。神は、今も、地上の歴史を貫いて、その勝利の戦いを続けていられる。そして、必要な場合には、人間を具体的に助け給う。そしてさらに、人間を徴発し、人間をご自身の戦いに参加せしめ、人間の戦いを用いて世界を究極的な勝利へと導いていられる」(p.93)。
「個人の心」だけでなく「全被造物」、つまり、「悲惨な状態にある」(p.144)すべての人びとの生活を救う戦いなのです。その戦いには、ぼくたちも「徴発」され、「参加」させられます。
神はその最終的な勝利の日が来ることを約束してくださいます。けれども、その日はまだ来ていないように思われます。これはどういうことでしょうか。
「戦いは、まだ完了したのではない。残敵がまだ到るところに出没して、ゲリラ戦を行い、味方を苦しめている。したがって、そのような残敵の掃討が必要である。そしてその場合、その残敵掃討に従事するのは、キリスト者である」(p.194)。
「残敵」「ゲリラ」などは、制圧者が抵抗者のことを指す場合もあるので、比喩としては疑問が残りますが、ポイントは、勝利の約束された神の正義の戦いにぼくたちが参加する、ということでしょう。
「彼の信じる神は、その全権を、人間の参与なしにではなく、人間の参与を用いて貫徹し給う神であった」(p.197)。
正義について、子ブルームハルトはこう言っています。「私は、永遠に幸せ(ゼーリヒ)であろうという願望に対して、我慢がならない。われわれの教会が人々に、幸せになることしか教えないことに、怒りを覚える。われわれは、先ず《正しく》あろうとするべきだ」(p.279)。
これが教義や教会規則における正しさのことではないことは、子のつぎの言葉からも容易に推し測れます。「人々を、神の国に対する飢えの中に引き入れ給え。そうすれば、彼らは地上的な飢えのためのパンをも見出す」(p.283)。
神の国を求めることは、地上に正義を求めることを含むのです。けれども、それは権力による「正義」ではありません。「国家も教会も、すべての人が『支配の政治』を行っている。しかし、やがて、イエスが欲し給う『交わりの政治』が始まらねばならない」(p.364)。「もし政治が、人間を受け容れられないのであれば、政治は呪われるがいい」(p.369)。
「私が義が住む新天新地に希望を懐く場合、地上でもより義しいこと、より良いことが行われるように振舞うことなしに、どうして霊の力に基づいて希望を懐くなどということが、可能だろう」(p.389)。
神はどんな人間をも無条件に愛してくださる(信無きわれをも!)、その神がぼくたちに正義をもたらし、ぼくたちを正義へと促しておられる、そう信じる人びとには、大きな慰めとあらたな出発をもたらす大著だと思います。