金井さんは大柄だが、どちらかというと、撫肩だ。そんなに、いかっていない。ぼくはいろいろな人と揉めてきたが、彼とは揉めたことも傷つけられたこともない。
「暴力を使えたら気持ちの上では楽かもしれません。警察や海保に暴力をふるわれてやり返したら、その瞬間だけはスッキリするかもしれません。しかし暴力はさらなる暴力を生むだけで、何の解決にもなりません。そのことを自分にも言い聞かせて忍耐してきました」(p.109)。
この本を読んでいるとき、ぼくは、自分を責め続ける人びとを、腕力は振るわないと思うけど、圧倒的な力でねじ伏せたい、という強い衝動に見舞われている最中だった。
「言葉の暴力も用いない、汚い言葉、きつい言葉、ののしったり、相手の尊厳を傷つけるような言葉を発しない。年配の仲間はこう表現しました。『孫や子に語りかけるように話しましょう』と」(p.192)。
ぼくは、まさに、汚くきつい言葉で、ののしり、侮蔑の言葉をぶつけたかったのだ。そんなことはおかしいだろう、おまえらのやっていることは最低だ、と。
「平和を造る場合は、前提に今生きている社会は平和ではないという考えがあります。平和のない所に平和を造るのですから、その方法自体が平和的、つまり非暴力でなければできません」(p.171)。
ならば、ぼくも平和でないところに平和を造りたい。けれども、それには勇気がいる。こちらが平和を造ろうとしても、相手がそれに応じてこないことが容易に想像される。すると、ぼくもただちに、平和的でない態度に変わってしまう。それでも耐える覚悟と、非平和的なものに平和に対峙する勇気がいる。
「私たちの行動は現場ですべてが解決できるものではありません。つまり現場の活動が新基地建設工事を止めることはできないのです。もちろん、だからといって諦めてはいません・・・何が得られたかというと、広がりです。十年前には想像できなったようなつながりと広がりが確実に与えられてきました。それこそが基地建設を食い止める力だと思います。だから希望を持ち続けていきます」(p.198)。
本来、正義がどこにでもみなぎっているならば、その場その場で、正しい主張が通らなければならない。けれども、そうでないなら、その場に正義が通るためには、まわりに正義の賛同者が広がっていかなければならない。
正義を訴えても訴えても、退けられ、無視され、踏みにじられている友がいる。その場の上空にも、金井さんが書いているような「広がり」が生じることを切望する。
ぼくの心身にも、言葉と態度と姿勢と行動の非暴力を叩き込まなければならない。もっともっと沖縄に行かなければならない。沖縄で抗議できる人間に成長しなければならない。